2012年 12月 29日
みなさん、こんにちは。
大半の皆さんは、会社や組織で働いている。そして、いまは冬休みに入り、すばらしい休日を過ごしているにちがいない。
私のように、ある意味で一年中休みのようなものであり、ある意味では一年中仕事をしている人間とは大分違う。私には休日はない。なぜなら普通のサラリーマンからすれば一年中休日にしか見えないはずだからである。
さて、そんな休日には、こんなものを見て、この世界のことをちょっとまじめに考えてみるのも良いに違いない。
ちょっと前に、私はここに
分かる人にだけ分かる話:1次元とプリセッションの話
というものをメモしたが、これと実質的にはまったく同じ内容をまったく別の観点から語っている人がいる。
以下のものである。これは1時間25分ほどあり、ちょっと長い。日本語訳付きである。この筋では超有名なグリフィンさんの話である。
集団主義者の陰謀 The Collectivist Conspiracy
この地球では、王族を除けば、だれもがお金を稼がないと生活が出来ない。これすなわち「奴隷階級」である。もうちょっとやさしい言い方をすれば「労働者階級」という。そんな奴隷たちに対して、王族や支配者たちは、いかにして奴隷にこの世界を自分たちが参加しているような気にさせることができるか?を考え出した。それが「集団主義」と呼ばれるものだという。
一番有名なものが、民主主義と共産主義である。独裁主義もまた一種の集団主義に過ぎず、民衆が独裁者を選ぶ。一番右が独裁主義であり、一番左もまた極左翼の独裁主義であるという。両方ともに集団主義の一つの形でしかない。そして、両方とも、奴隷階級である民衆の意識を社会へ釘付けにして、ガス抜きするためのものだった。
まあ、そんなふうな考え方をグリフィンさんは紹介している。何事も自分の目で見、自分の頭で考える。そして自分で判断することである。中には、考えるな、感じろという輩もいる。あるいは、宇宙の声を聞け、などというものもいる。さらには、シナジェティクスを発見せよという人もいる。
しかし、それもまた結局は各人が自分の責任の範囲で判断することになるのは避けられない。
いずれにせよ、奴隷階級がそうやって自分で考えた結果がこの程度の社会だから、それで満足せにゃーなりませんゾ、と奴隷に思い込ませる高級戦術が「集団主義」というものらしですナ。
私は「徒党は組まない、個人主義者」であるが、こういうのは、インディビィジュアリズムというが、どうやら100年以上前に死語となったようである。
そうやって見ると、確かに19世紀の学者はみな個人で研究していたが、20世紀以降になり、学会(ソサエティー)を次々に生み出し、学会に認められない科学者は偽物だというような風潮が生み出されたわけだが、それもまた「集団主義の陰謀」だったということになるだろう。
学会で認められた研究者だけに国から莫大な税金が投入される。
それ以外はいくら重要で良い研究を行っていても研究費はゼロ。そういう社会になったのである。
集団に認められなければ、実験も真実とはならない。物理法則もまた学会に認められなくては物理法則にならない。
こういうことを哲学者ラカンは痛烈に批判し、主張したらしいが、それを自作自演のマッチポンプという形で揶揄したのがアラン・ソーカルという偽ユダヤ人だった。
これは俗に「ソーカル問題」といわれた事件だったらしい。しかしながら、グリフィンさんの言う集団主義の陰謀という観点からすれば、あながちラカンという人の主張も無視できない。
またつい先日まで「これは政治判断だ」という言葉そのものに心底快感を感じたのが、ミンス党の政治家たちだったようだが、これぞ「集団主義の陰謀」の最たるものである。全学連や革マル派、日教組、労働組合などの左翼が、こういう言葉に酔いしれたのも頷ける。一種の魔力があるのである。
同様に、「これは社内判断だ」といって、奴隷階級の社員に向って犯罪行為も認めさて実行させようとする経営者や資本家たちもまた「集団主義の陰謀」の最たるものと言えるだろう。
右と左の両サイドをまるでラグビーやサッカーのチームのように戦わせる。これが「集団主義の陰謀」とグリフィンさんが説明しているわけである。がしかし、これは18世紀のバーバリアンイルミナティーの本家アムシェル・ロスチャイルドの行動計画書にそっくりそのまま明文化されていたというから、彼らの慧眼には恐れ入るばかりである。まったく脱帽である。
「集団主義の陰謀」、恐るべし、というやつですナ。
ひょっとしたら、天使と悪魔、神と悪魔の2大マッチもまた「集団主義の陰謀」というやつだったのかもしれないですナ。
あなたはどっちの陣営につく?ってナ。
いやはや、世も末ですナ。
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*__ここで注意しなければいけないことは、どんな自由のことなのかということですよね。
自身をちゃんと発見する自由。自身のもてる才能や能力と意思をきちんと自他を傷つけないで発現するという自由は素敵です。
自由のうちに数えられている自我を張ることと自由であるということは、本来は別ものですね。
自由である。これは自我/エゴ/欲や思いやり無しからくる我が侭や嫉妬や憎悪にかられることから離れていられる=自身を感情の鎖につながないということ。それが一番にあげられます。
好きなように他人を動かし、そのことで自分や自分を取り巻く集団が一番得をする、甘い汁を吸えるというのも自由の1つとして上がるなら、それを許す社会なら、今の社会と変わらないことになる。それを癒着や腐敗というのですよね。
バーバリアンイルミナテイを模倣したイルミナテイが、今はイスラエルとイランを対戦させています、と言い切って良いかな。中国と日本もね。
政治家方もどうやら政治経済で2イン1奴隷というもののようだし、一般労働者階級とさほど変わらないか。政府から給与を渡されて働くわけですものね。
はてさて、どんな2013年になるでしょうか。