Friday, February 22, 2013

さらに出雲の旅ー*ー曽ヶ端賢治様のブログより転載



荒神谷遺跡と神奈備信仰のルーツ

2012-10-22
出雲にある「荒神谷遺跡」へ行ってまいりました。

荒神谷遺跡          















1984年からの発掘調査で、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土した遺跡として知られています。この遺跡は、朝鮮半島を経由して出雲へと上陸した、出雲族による紀元前2世紀~紀元2世紀頃の遺跡であったと推測されます。(なお、出雲族のルーツは、古代イスラエル(北朝)10支族であったと推測されます。)

出雲族は上陸した際に、銅剣・銅鐸などの製造技術とともに、稲作技術をも導入したものと思われます。稲作が始まった時期からが弥生時代とされていますから、「弥生人=出雲族」と考えてほぼ間違いないでしょう。なお、これは余談ではありますが、縄文人とは、アイヌ民族や琉球人、あるいは海人族(安曇氏、海部氏、尾張氏など)のことであり、弥生時代の後に入ってきた古墳人とは、古墳時代に大和朝廷を建国した日向族(古代ユダヤ(南朝)2支族)のことを言います。(製鉄技術をもたらしたのは、出雲族と同時期に入ってきた秦氏か?この秦氏も南朝2支族に属します。)

さて、この遺跡で発見された銅器類の中で、私が最も注目しているのが「銅鐸(どうたく)」です。

弥生時代の銅鐸                      
                           
【弥生時代の銅鐸】 (Wikiより)

銅鐸は、紀元前2世紀から紀元2世紀の約400年間にわたって、作り用いられてきた祭器です。これまでに全国で出土した銅鐸は約500個あると言われており、その出土地の分布の大まかな内訳は以下の通りとなります。
島根県 54点
兵庫県 56点
徳島県 42点
滋賀県 41点
和歌山県 41点 


西日本を中心としていることが分かるかと思います。この出土圏内を総称して「銅鐸文化圏」と呼んでいるそうですが、この文化圏こそが、何を隠そう「邪馬台国連合」の勢力圏内であったと推測されるのです!出雲族が出雲で建国した邪馬台国は、縄文系先住民との平和的な融合の下、四国、大和方面へとゆるやかな拡大を見せていったのでしょう。(なお、邪馬台国連合の女王・卑弥呼は、海人系の海部氏の出であったとする説があります。)

この勢力拡大に伴って、縄文系先住民が信仰していた「自然崇拝(アニミズム)=縄文神道」と、出雲族が持ち込んだ「弥生神道(注連縄や拝殿・鳥居などを用いる、あるいは食物信仰)」とが習合し、次第に「神奈備信仰」へと変遷していったものと推測されるのです。


「神奈備(かんなび)」
神霊が神留る(かんずまる)場所としての御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)を無数に擁した領域の事であり、自然環境をご神体とした神代(かみしろ)のひとつの在り方。

神が「鎮座する」または「隠れ住まう」山や森の神域をさし、神籬(ひもろぎ)、磐座(いわくら)となる森林、神木、鎮守の森、神体山をさし、または岩(夫婦岩)や滝(那智滝)などの特徴的な自然物がある神のいる場所をいう。神籬と磐座の総称でもある。依り代となる森林や岩などが見られない神奈備も存在し、これらは「神奈備野」とも呼ばれる。
 (Wikiより)


先日のブログでも言及させて頂きましたが、日本各地に存在する「大己貴(オオナムチ)神社」、あるいは大物主を祀る「三輪(美和)神社」などは、神奈備信仰の痕跡を残すよい例と言えるでしょう。

さて、話を戻しまして荒神谷遺跡です。
荒神谷遺跡          

















                                                                                                       発掘場所には、今でも発見された銅器類のレプリカが置かれているんですね。
荒神谷遺跡          

















この場所に銅鐸が埋められていたということは、ここは、弥生時代における「祭祀場」であったことを示しています。「弥生神道」の特徴は、山や岩などの「自然物」をご神体として、拝殿や鳥居などを通して祀っているということです。(ちなみに、そのあと始まった「神社神道」では、本殿にご神体となる神を勧請して祀ることになります。現在の神社のほとんどがこの形式を採っています。)

この荒神谷祭祀場の神体山は、以下に見える「仏経山(ぶっきょうざん)」であったと言われております。(画面の奥に見える山脈です。)
荒神谷遺跡          

















この山は、元来「仏経山」と呼ばれていたわけではなく、戦国時代にこの地を治めていた尼子経久公が、この山に12の寺を建立した後、山の名前も仏経山と改めたのです。ではその前の名称は?と言いますと、これが「神名火山(かんなびやま)」と呼ばれていたわけですね。すなわちこの山は、その後、全国へと広がることになる「神奈備信仰」の原点とも言える山なのです。

ちなみに『出雲国風土記』によりますと、「神名火山」は宍道湖を取り囲むように、意宇郡、秋鹿郡、楯縫郡、出雲郡の4カ所にあったとされています。上の「仏経山」は、このうちの出雲群に存在している山のことです。

出雲族が全国へと拡散していく中で、「神奈備信仰」自体も広まっていくことになります。その中で最も有名なのが、三輪山を神体山としている「大神神社」と、守屋山を神体山としている「諏訪大社・上社」です。これらの神社は、今でも弥生神道の名残りを残している神社だったんですね。(ただし、大神神社の拝殿は、江戸時代に入ってから造られたものです。)

さて、右に見えるのが荒神谷博物館となります。
荒神谷遺跡          
          荒神谷遺跡
以下は、荒神谷史跡公園です。
荒神谷遺跡          
          荒神谷遺跡
戦国時代の武将・武田信玄公は、甲斐を出てからまず信濃に入り、諏訪家を攻め立てることになります。諏訪家滅亡後は、諏訪家当主・頼重公の娘・諏訪御料人を側室としました。その後、武田家の家督を諏訪御料人との子供・勝頼に継がせるなど、諏訪家への思いは並々ならぬものがあったことは容易に推測できます。信玄公は上洛の途上、志半ばで病に倒れることになったわけですが、上洛の先に見えていたものとは・・・この出雲平野だったのではないでしょうか?


【関連記事】
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【参考図書】
三輪山と卑弥呼・神武天皇三輪山と卑弥呼・神武天皇
(2008/08)
笠井 敏光、千田 稔 著

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