縄文の神(ニギハヤヒ)の復権と大神神社
奈良の大神神社(おおみわじんじゃ)に行ってまいりました。
「大神神社」
御祭神 大物主大神
配神 大己貴神
少彦名神
当神社は、秀麗な三輪山を神体山とする我が国最古の神社で、大和国一ノ宮、全国各地に祭祀せられる大物主神の総本社であります。
大物主神は、大国主神の和魂(幸魂・奇魂)で、大国主神が神代の昔、少彦名神とともに国造りに労せられたとき、その和魂が現れ、問答の後、自らこの三輪山に鎮まられたのであり、農工商等、あらゆる産業を開発し、常に日常生活全般をお守り下され、現界・幽界を主宰し給う和の大神であります。
その御神徳は極めて広大であり、古事記・日本書紀・万葉集等の古典により明瞭に伺えます。大和・河内・摂津はもとより、広く全国にわたって篤い信仰を集めています。
山麓には、崇神天皇から推古天皇に至る十三代の皇居遺跡があり、この地は当時の国道一号線とも言うべき山の辺の道を動脈として、四・五世紀頃の日本の政治経済の中心をなしていました。
ここで言う大物主大神とは、一般的な見方で言いますと「ニギハヤヒ尊」であるとされています。しかし著者の坂本政道氏によりますと、それは真実ではないと言います。すなわち、「大物主神=ニギハヤヒ尊」という等式は、後世の物部氏による創作であるということでした。
氏によりますと、まず縄文系先住民たちによって、三輪山の龍神・大物主神(シリウス人)が祀られていたということでした。
次に出雲族が建国した邪馬台国が同地に出現した際、海人系の卑弥呼によって、三輪山で太陽神・アマテル(アメノホアカリ)を祀る儀が始まるようになったと言います。
さて、真実はどうなのでしょうか?
この三輪山界隈は、かつて縄文系先住民の豪族・ナガスネヒコが治めていた土地です。(ただし氏によりますと、このナガスネヒコも、実は邪馬台国における出雲族出身の将軍の一人であったそうです。) そこに、北九州からニギハヤヒの一軍が東征を開始し、この大和の地に納まり、さらにはナガスネヒコの妹との婚姻によって、平和的な融合がなされたと言われています。
また、この界隈には、神武天皇がかつての東征時に辿ったとされる場所に建てられた「神武天皇聖蹟碑」なども建っております。ニギハヤヒ東征のあとに、神武(崇神)天皇が同地にやってきたことを示す碑です。
『先代旧事本紀』によりますと、ニギハヤヒ尊は日本国の初代天皇ということになります。しかし、坂本氏によりますと、これも後世の創作であり、実はニギハヤヒ尊は出雲族ではなく日向族の一員だったのであり、確かに北九州からの東征はあったようなのですが、大和への到着後、大和の邪馬台国(出雲族・ナガスネヒコ一族)に取り込まれていったというのが真実のようなのです。
なお、『先代旧事本紀』の中には、出雲族の皇位継承の証し「十種神宝」が登場してきます。「十種神宝」とは、文字通り「十種類の宝」であるわけですが、その種類としては、「鏡2種、剣1種、玉4種、比礼(スカーフ様のもの)3種」とされています。これが、のちの日向族の手に渡った際に、鏡が八咫鏡、剣と比礼が草薙剣、玉が八尺瓊勾玉へと変わり、日向族の皇位継承の証し「三種の神器」として用いられるようになったというのが真実でしょう。(いずれも神宝も、「鏡」を最重要視しているという点が興味深いところなのです。)
(「十種神宝を使った鎮魂祭の謎」参照)
参道を歩いている途中、左手に摂社の「祓戸神社」が見えてまいります。
ご祭神は、瀬織律姫をはじめとした祓戸大神であります。
まずは、この神社で身を清めてから拝殿へと進むのがしきたりのようです。ここでは瀬織律姫の復活を祈念してまいりました。
こちらは拝殿前の鳥居です。
二本の柱から構成されている鳥居は、古代ユダヤの神殿「幕屋」の入り口を象徴しています。古代の神社はすべてこの形式であったと言われています。
さて、拝殿へと到着しました。
この大神神社は三輪山そのものをご神体(神体山)としているため、今日でも本殿をもたず、この拝殿から三輪山自体をご神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残しています。三輪山信仰は、自然を崇拝するアニミズムです。その起源は縄文時代、あるいは弥生時代にまで遡ると考えられます。
こちらがご神体の三輪山になります。
今でも大物主神がご鎮座されている山です。大物主大神の復権を祈念してまいりました。
【参考文献】
奈良の大神神社(おおみわじんじゃ)に行ってまいりました。
「大神神社」
御祭神 大物主大神
配神 大己貴神
少彦名神
当神社は、秀麗な三輪山を神体山とする我が国最古の神社で、大和国一ノ宮、全国各地に祭祀せられる大物主神の総本社であります。
大物主神は、大国主神の和魂(幸魂・奇魂)で、大国主神が神代の昔、少彦名神とともに国造りに労せられたとき、その和魂が現れ、問答の後、自らこの三輪山に鎮まられたのであり、農工商等、あらゆる産業を開発し、常に日常生活全般をお守り下され、現界・幽界を主宰し給う和の大神であります。
その御神徳は極めて広大であり、古事記・日本書紀・万葉集等の古典により明瞭に伺えます。大和・河内・摂津はもとより、広く全国にわたって篤い信仰を集めています。
山麓には、崇神天皇から推古天皇に至る十三代の皇居遺跡があり、この地は当時の国道一号線とも言うべき山の辺の道を動脈として、四・五世紀頃の日本の政治経済の中心をなしていました。
ここで言う大物主大神とは、一般的な見方で言いますと「ニギハヤヒ尊」であるとされています。しかし著者の坂本政道氏によりますと、それは真実ではないと言います。すなわち、「大物主神=ニギハヤヒ尊」という等式は、後世の物部氏による創作であるということでした。
氏によりますと、まず縄文系先住民たちによって、三輪山の龍神・大物主神(シリウス人)が祀られていたということでした。
次に出雲族が建国した邪馬台国が同地に出現した際、海人系の卑弥呼によって、三輪山で太陽神・アマテル(アメノホアカリ)を祀る儀が始まるようになったと言います。
さて、真実はどうなのでしょうか?
この三輪山界隈は、かつて縄文系先住民の豪族・ナガスネヒコが治めていた土地です。(ただし氏によりますと、このナガスネヒコも、実は邪馬台国における出雲族出身の将軍の一人であったそうです。) そこに、北九州からニギハヤヒの一軍が東征を開始し、この大和の地に納まり、さらにはナガスネヒコの妹との婚姻によって、平和的な融合がなされたと言われています。
また、この界隈には、神武天皇がかつての東征時に辿ったとされる場所に建てられた「神武天皇聖蹟碑」なども建っております。ニギハヤヒ東征のあとに、神武(崇神)天皇が同地にやってきたことを示す碑です。
『先代旧事本紀』によりますと、ニギハヤヒ尊は日本国の初代天皇ということになります。しかし、坂本氏によりますと、これも後世の創作であり、実はニギハヤヒ尊は出雲族ではなく日向族の一員だったのであり、確かに北九州からの東征はあったようなのですが、大和への到着後、大和の邪馬台国(出雲族・ナガスネヒコ一族)に取り込まれていったというのが真実のようなのです。
なお、『先代旧事本紀』の中には、出雲族の皇位継承の証し「十種神宝」が登場してきます。「十種神宝」とは、文字通り「十種類の宝」であるわけですが、その種類としては、「鏡2種、剣1種、玉4種、比礼(スカーフ様のもの)3種」とされています。これが、のちの日向族の手に渡った際に、鏡が八咫鏡、剣と比礼が草薙剣、玉が八尺瓊勾玉へと変わり、日向族の皇位継承の証し「三種の神器」として用いられるようになったというのが真実でしょう。(いずれも神宝も、「鏡」を最重要視しているという点が興味深いところなのです。)
(「十種神宝を使った鎮魂祭の謎」参照)
参道を歩いている途中、左手に摂社の「祓戸神社」が見えてまいります。
ご祭神は、瀬織律姫をはじめとした祓戸大神であります。
まずは、この神社で身を清めてから拝殿へと進むのがしきたりのようです。ここでは瀬織律姫の復活を祈念してまいりました。
こちらは拝殿前の鳥居です。
二本の柱から構成されている鳥居は、古代ユダヤの神殿「幕屋」の入り口を象徴しています。古代の神社はすべてこの形式であったと言われています。
さて、拝殿へと到着しました。
この大神神社は三輪山そのものをご神体(神体山)としているため、今日でも本殿をもたず、この拝殿から三輪山自体をご神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残しています。三輪山信仰は、自然を崇拝するアニミズムです。その起源は縄文時代、あるいは弥生時代にまで遡ると考えられます。
こちらがご神体の三輪山になります。
今でも大物主神がご鎮座されている山です。大物主大神の復権を祈念してまいりました。
【参考文献】
三輪山の古代史―大和王権発祥の地から古代日本の謎を解く (2003/03) 上野 誠、 他 |
坂本政道 高次意識トートが語る ベールを脱いだ日本古代史 (2012/06/12) 坂本 政道 |
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