Wednesday, May 1, 2013

神言会の御言葉を意識します(合掌)


修証義、いたずらに百歳生きるは恨むべき日月なり

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先のブログには「修証義、地獄に案内する貪瞋痴(とんじんち)」を書きましたが、今回は同様に修証義の中の第五章「行持報恩」の中に有ります【いたずらに百歳生きるは恨むべき日月なり】に関して少し述べたいと思います。

何故かと言いますと、私は子供の頃に姿無き声から教えを受けていました。無論、当時は子供のことですから難しいことを言われたのではなくて、易しい言葉で教えを受けていました。
それは、この世で人が生きている意味です。ほとんどのスピの方達が簡単に言うだけで深く言及しない「魂」に基づく教えです。人は生まれて死んで生まれて死んでを繰り返している。これは一般的に【輪廻転生】として言われていることです。そして、魂がこの世に人として出て来るのは魂の修行・修学の意味だと。
しかし、輪廻転生は仏教には教えがありますが、聖書には無く、また日本神道にも確たる教えとしては存在しません。ただ、祝詞の「十種神宝」などに人は死んでも、更に生きなんとあるぐらいのことです。

よく魂は不滅だと言われる方がありますが、私が子供の頃に受けた教えは、魂は不滅ではなくて腐ったり潰れたりもするです。腐ったり潰れたりすれば、もう次ぎに人として出る幕は無くなるわけです。
私自身は腐ったり潰れたりしている魂を霊的に見て来ましたが、スピでもそうしたものを見たことも無い方が、魂が腐る潰れるなどは無いと主張されること対しては別に意は唱えません。単にその人は見ていないだけの話だからです。見ていない以上は否定論も成り立つからです。見ていないからと反論すれば不毛の論議になります。
仏教においてお釈迦様はダキニ天に対して、腐った魂だけを食べればいいではないかと説かれたとありますように、仏典ですら腐った魂の存在を説いているわけですから、腐った魂や潰れた魂が存在しても別に不思議な話ではないのです。
もう腐ってしまった魂は、その人に真の信仰心が無い限り、助けようがないのです。

大本教の出口王仁三郎聖師は、この世は【天人の苗床】と言われていますが、この世の生き方において、霊界に帰れば天人と呼ばれる霊界でも高い世界に入るとか、お釈迦様の様に悟りを得たから二度とこの世には出て来ないとも言えますし、自らは仏陀に成らずとも他の人を天人界に渡そうと働く天使の様な役に徹するもあるわけです。
だが、この世に出て来て遊んでいたのでは、落ちて行くのみなのです。

その修証義の第五章「行持報恩」の中の一説に下記のようなものがあります。
いわゆるの道理は日日の生命をなおざりにせず、私に費さざらんと行持するなり、光陰は矢より迅(すみや)かなり、身命は露より脆(もろ)し、いずれの善巧(ぜんぎょう)方便ありてか過ぎにし一日をふたたび還し得たる、いたずらに百歳生けれんは恨むべき日月なり悲しむべき形骸なり、説(たと)い百歳の日月を聲色(しょうしき)の奴婢と馳走すとも、その中の一日の行持を行取せば一生の百歳を行取するのみにあらず、百歳の佗生(たしょう)をも度取すべきなり、この一日の身命は尊ぶべき身命なり、尊ぶべき形骸なり、

意訳します、道理と言われますものは日々の命をなおざりにせず、私(自分勝手・自己本位・我れ好し)に費やそうとせずに行持(修行の意味、前の文で説かれている)することなのです。
私達のこの世での時間とは魂の時間にすれば一瞬であり、その身命(肉体の命)とは草の葉の露ごときものなのです。どのような良い方法を持ってしても過ぎ去った時は二度と戻っては来ません。
真理に対して何も学ぶこと無く100歳生きたとしても、それは後で悔いる日月であり無意味な日月なのです。たとえ100歳の間、聲色の奴婢(諸々の声・上からの命令による奴隷)で走り回っていたとしても、その中の一日でも行持(真理に基づく感謝報恩・この経ではそれを仏と見做す)得たならば、その100歳は無意味な100歳ではなくて、価値がある100歳となるのです
その行持を得た一日は尊ぶべき身命であり。尊ぶべき形骸なのですよ。そうしたことを述べているわけです。

この修証義は禅宗の教本ですから、仏はお釈迦様を指します。お釈迦様が全ての頂点と考えるわけでして、聖書に置き換えれば別にエホバでもいいわけです。その頂点(唯一)から発した事柄に関して感謝報恩が必要だという教えなのです。すなわち、自分はそうした存在によって生かされていることを理解することなのです。

光陰(月日)は矢の如しと言いますが、私が子供の頃に受けた教えは、人のこの世での一生とは長いように感じるであろうが、魂の世界からすると、数日の時間のようなものである。あっと言う間のことである。その短い時間の間に何を習得するのか?。その数日間の時間を学んだ者と遊んでいた者とでは、大きく違って来る。この世で100年生きようとも、何も学ばなければ無意味な100年である。
それでは何の為にこの世に出たのか?。あの世に帰って来てから、貴方はこの世に何をしに出たのかと問われるであろうと。

この世で長生きすることは長寿で、おめでたいことです。しかし、それは肉体上の話であって、必ずしも魂の成長とか進化とは結びつきません。私達はこの世に何の為に生まれてきたのか?。そこに視点を合わせますと、この世で生きた年数はそれほど意味がないのです。問題は、貴方はこの世で何を学んだかなのです。
無論、長く生きる方が、この世で人の為社会の為に尽くしていればより貢献度も高くなりますし、悔い改めのチャンスも広がって来るわけです。

ある事例が存在します。10歳くらいの男のお子さんだったのですが亡くなられました。自分の肉体の親の夢枕に立って、自分はこれから〇〇之命として神界の御用をすると告げたわけです。そして霊能者を通じて活躍始めたわけです。
普通の感覚で行けば、それはおかしいだろう。たったこの世で10歳しか生きていなかった子供に何が解るかとなりますが、魂は輪廻転生であって、その魂は過去から生きているのです。何も知らない10歳の子供ではないのです。ただ単に今回のこの世での命は10年だけだった話です。
私も今世では別に霊能者の方のように世に出なくてもいいことになっています。霊界に帰ればある地位に就くことになっています。ただ、それは私に臨んだ声が悪神でなかったならばの話でしょう。悪神ならば空手形かも知れません。だが、別に私はその地位に就きたいわけではありませんので、どうでもいいことです。

私はヴェーダ典にある「人の中に眠れるコブラ(蛇)が目ざめて走り上がる時、人は真理に目ざめる」を体験しました。これはヴェーダ典に記されているので昔の聖者の方達はコブラ(蛇)の目覚めを経験されたのでしょう。だが、それ以上のことが調べても解らない。現代というか近世の修行者は体験すらしていないから追求に走らなかったのでしょう。
ただただ真理を求めて走った日々でした。その中で「人には良心と呼ぶ神が内在する」に突き当たったわけです。それはお釈迦様の本当の悟りだったわけです。
しかもそれは言葉の仕組みで見ると、五十六億七千万であり「みろく(369)」でなければ紐解けないようになっているわけです。
私は創造神を知る者ではありません。しかし、言葉の仕組みを読んで来て、数千年に渡って仕組みをこしらえて来た神が存在するとは認識出来たわけです。

多くの人から支持されているからと説く方の教えが「真理」の道ではありません。真理の道がそんなに簡単ならば、とっくの昔に真理は説かれていたでしょう。本当に真理に向かって行くのであれば、「蛇」を頭上に帰らせる必要があるのです。【オロチ(大蛇)】とは降ろされた知恵の意味であり、「巳(蛇)帰る」でないと真理には向かえないからです。

真理の道は難しいと逃げる。それは仏教の法華経に良薬は口に苦しとあるように、人は楽に生きたいと苦い教えからは逃げるわけです。それでは100歳生きたところで、高き神の道にも進めず、自分の魂の位を上げる事も出来なくなるのです。

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