Friday, May 17, 2013

鬼祓いの伝統行事ーー自我の視点と真我の視点

天下泰平さんに転嫁してもらいたなーー;ブログの記事タイトル左に貼ってある門松の絵を外してもらえないかな
理由はこれなの根ーー>>>神一厘の仕組み•探究道 〜 曽ヶ端 賢治さんの記事
が信じられるーーVわにだから差

東北、宮城の人なのにーー;泰平さん、
ウシトラの金神さまが陰陽道の呪詛で封印されてきたこと気にかけないのか?
書いてあるよ。転載しますーーw
門松マークはコピペしませんがーー天下泰平さんの記事をアップぷ普



「節分」の時期にまく豆は煎った大豆だが、煎った豆には芽が出ない。これは「もし煎った豆から芽が出るようなことがあったら、表に出てきてもいいよ」という呪詛なのである。

また、「節分の夜」に、「柊鰯(ひいらぎいわし)」と言って、柊の小枝と、鰯の頭を玄関の門口に吊るす習慣がある。これは柊の葉のトゲで、艮の金神の目を刺し、鰯の臭いで艮の金神が家の中に入って来られないようにするための呪詛である。

他にもまだある。「五節句」に行なう風習はみなそうだ。

まず「正月」。門の前に立てる門松は、艮の金神の墓標である。赤白の鏡餅は、艮の金神の骨と肉を表す。飾り物の鞠(まり)は、艮の金神の頭、弓の的は、艮の金神の眼を表している。

また、3月3日の「桃の節句」では、蓬(よもぎ)の草餅を食べるが、あれは艮の金神の皮膚である。

5月5日の「菖蒲(しょうぶ)の節句」で食べる粽(ちまき)は、艮の金神のひげと髪である。

7月7日の「七夕」には素麺(そうめん)を食べるが、あれは艮の金神の体の筋を表す。

9月9日の「菊の節句」では、菊の酒(菊の花を浸した日本酒)を飲むが、あれは艮の金神の血である。

これらの風習は魔除けの呪詛が起源になっているのだが、

その
除こうとしている魔というのが、

「鬼=艮の金神」なのだ。

その艮の金神の神示から誕生した大本では、節分の豆まきでは、当然ながら「鬼は外」とは言わない。「鬼は内!福は内!」と言って豆をまく。

また、「注連縄」も使わない。注連縄は国祖(艮の金神)が表に出てこられないように、縄を張り巡らした結界が起源だからだ。神社などでは、ご神木の幹に必ずと言っていいほど注連縄が張られているが、大本のご神木には注連縄がない。

このように、国祖を封じ込めるための数々の呪詛が、


日本の文化の中に風習として伝わっているのだ。



だけど根、記事は良い世意ーー転載させて頂きます和仁
中庸

ありがとうございまーす。ーーP


自我の視点と真我の視点



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011てん
※最近では相対性理論も否定されつつあるが…

 よく聞かれる質問の中に
「どうやったらすごい人々と知り合えるのですか?」「知り合うだけでなく、どうしたら仲良くなれるのですか?」といったものがあります。

この件について、ちょっとお伝えしたいこともあるので、特にこれからの世代の若い人々の今後の人生における人との出会いの参考になればと思います。

まず、すごい人々、言葉を変えれば各分野の天才とも呼ばれる人々のことかもしれませんが、これらの人々との出会いというのは、1つには引き寄せの法則みたいなものがあると思います。

というと
「自分も天才だから天才が集まるんだ」と誤解されそうですが、それはまったくの逆で、変に天才とか特別な人とかは意識せず、あくまでも同じ人間であると誰に対しても考えられるようになると、自然と引き寄せ合うと思います。

特別視するわけでもなく、崇拝するわけでもなく、どんな人でも平等に見る、接することが、そういったちょっと個性の強い人々と出会いに繋がったり、そして仲良くなれる、もしくは相手から信頼して頂けるポイントだと思います。

自分の評価をあげるのではなく、また相手の評価をさげるのでもなく、ただ過剰に相手を評価しすぎているようであれば、そのバブルを一旦は消すことで、等身大の自分と相手となり、そうすると自然とお互いの心が通じ合うと思います。

自分自身、言葉では天才やすごい人として様々な方をご紹介することはありますし、実際に心から尊敬している偉人の方ばかりではありますが、誰に対しても特別に崇拝することもなく、常に自分は自分であるというスタンスを持っており、それがゆえに、相手からも平等なスタンスで扱って頂けています。

また、これは自分自身でも反対の視点で普段から少し感じている点でもあり、私のことを教祖のような視点で見ている方、もしくは自らを信者のように振る舞って接する方よりも、やはり自分自身をしっかりと持っている方で、相手(私)を特別視をしない方の方が、話があったり仲良くなることがあります。

だからといって誰かのファンでいること、好意を持つことが悪いわけではなく、そういった想いを持ちながらも軸は常に自分自身にあることが大切ということです。

そして、天才とも呼ばれる人々は、大体皆、どこか強烈に秀でている才能を持っており、反対にどこか強烈に抜けている才能も同時に持ち合わせていますが、その点をしっかりと理解して受け入れることが最大のポイントでもあるかもしれません。すべてが完璧に整っている人は稀というかほとんどいないと思います。
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※一般的な人はこの青い五角形のバランスの良いグラフだとする

こういった才能や個性というものを、特別な項目を考えずに漠然とした
「人のレーダーグラフ」として表現すると、私も含めたごく普通の人々がある程度バランスのとれた上記のような五角形のグラフだとすると、天才と呼ばれる人々は、以下のように、何かが特別に突き抜けた部分もあれば、反対に普通の人々よりも明らかに欠けている部分があります。09
※天才と呼ばれる人々はどこかが突き抜けて、どこかが欠けている才能を持つ

これは何となく誰もが感覚的にはわかっていることでしょうが、重要なのは、この2つを重ねた時であり、そこに天才と呼ばれる人々が教祖のように崇められる場合もあれば、その正反対にまったく一般の人々には理解されず、理解されないどころか、変人だとか、批判されたり嫌われてしまうポイントがあります。
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※自分の枠を超えた部分は理解できないポイントであり、反対に自分の枠の中よりも欠けている部分はマイナスポイントとしてとらえる

というのも、普通の人のグラフと天才の人のグラフを重ねると普通の人の
グラフから飛び出す部分(赤い範囲)と、反対にグラフの内側に欠けている部分(白い範囲)が出てきます。

どちらもお互いが重ならない部分ではありますが、これを普通の人の視点から見れば、自分にもあって、相手にはもっとある部分より(赤い範囲)よりは、自分にはあるのに、相手にはない部分(白い範囲)が目立ちますし、気になってしまいます。いわゆる相手のポイジティブな面よりもネガティブな部分が強く伝わってきてしまいます。

だから、この欠けている部分が大きければ大きいほど、どんなに才能があって偉大なことを成し遂げた人でも、多くの人から理解されることは困難であり、それどころか不快に感じられて嫌われてしまう傾向が強いように思えます。

反対に、ちょっと違った視点を持った方は、この欠けているポイントよりも、外に飛び出しているポイントにばかり目が行き、どちらかといえば、その秀でた部分にだけ囚われてしまい、相手を超人や教祖のようにして自身とは切り離して崇拝してしまう傾向があります。

どちらも平等な視点からはかけ離れているのですが、その理由は、すべての基準が
自分自身の枠(グラフ)にあるからとなります。

つまり、自分のものさしの基準で相手を判断するからプラスとかマイナスの部分が出てくるわけであり、どんないびつな形であっても相手のすべてをそのまま受け入れるのではなく、お菓子の型抜きのようなもので、自分の決まった型を通して抜き取ってしまうため、それで型からはみ出る部分(赤い範囲)、型にはまらない部分(白い範囲)などが出てきてしまいます。

そして、この色眼鏡のような型は、
自我の視点で出来ているものであり、自我であることは自分中心なので、先ほどからお伝えしたように、自分にはあるものには目がいかず、それを超えたものは理解出来ないものとして片付けてしまい、自分の範囲内でかつ自分に足りないものには非常に厳しい目で見ます。この視点でいると、どちらかといえば相手のネガティブな部分にしか焦点が合わず、何かにつけて相手を批判してしまう傾向が出てしまいます。

反対に
真我の視点を持つと、自分という存在はなくなり、余計なフィルターや型を通して相手を見ないので、真実のままの相手をすべてそのまま受け入れることができます。

すると相手の飛び抜けた部分、極端に足りていない部分の両方がはっきりと見えるようになりますが、それを比較する基準もないので、特にプラスとかマイナス、ネガティブな部分などとしては感じなくなり、あくまでも個性の一部としてすべてを捉えることができます。

これが先ほどから伝えている平等のスタンスであり、そして自分が自分であるスタンスというのは、決して自我のことではなく、本当の自分である真我の自分、全体の自分ことであります。

個人的な経験からすると、恐らくこの真我の視点を持ち、平等なスタンスで誰とでも接することが、どんなすごい人とでも上手くコミュニケーションをとったり、信頼関係を築くポイントになると思います。

また、そういった天才達に出会って話を聞いても、話の内容がわからなくとも態度が悪くともストレスや不快感を感じず、そのままの姿で相手を理解できることだと思います。

そしてまた、これも反対の立場から相手を見ると、自分で型を作ったり色眼鏡をかけている人が、どんな形や色なのかもよくわかります。

では、この真我の視点を持つにはどうしたらよいかといえば、これは単純にエゴを減らし、なるべく自分中心で物事を考えることをなくすしかないと思います。そのための手法は人それぞれだと思うので、若いうちは色々と考えたり、試すのがよいのかもしれません。

でも、真実の情報を理解する視点も同じ原理なので、このブログが必ずしも真実を述べているわけではありませんが、ブログ読者の方の多くは、すでに真我の視点を持っている方が多いように感じます。

というのも、目に見えない世界の話や情報というのは、完全に先ほどの一般的なグラフでいえば外の世界の話であり、頭が固い人や固定概念に囚われている人、物質的な考えが強い人ほど自分で型を作ってしまい、ここで述べているような枠の外の話などにはまったく反応もできませんし、そもそも出会うこともないからです。

そういった意味では、情報も人との出会いも似た部分がありますね。

また、これは別に天才との出会いのための考え方ではなく、日常の誰とのコミュニケーションの基本であり、もっといえばビジネスの分野では、もっとも大切な視点です。

自我で営業をしている人と真我で営業をしている人では、必ず営業成績の結果が変わってきます。これは、自分自身が切り替えた時に驚異的に営業成績が変わった体験をしており、それは一緒に仕事をして来た方はよくご存知だと思います。

今は営業を受ける側なので、さらによく理解できますが、まだまだ世の中の営業マンは自我で営業している方が多く、本当に相手のことを想って営業や会話ができる人は少ないように思います。

また恋愛における秘訣もまったく同じです。自分中心でいる限りは、相手も同じような自我の人しかよって来ないか、なかなか良い相手に巡り会うことができません。なぜなら、真我の方は、自我の方を見極めることができるからです。

さらにいえば、フリーエネルギーという存在自体も、完全に一般的なグラフ外の世界の話であり、人類全体の集合意識が、自我から真我となり、この整った常識的なグラフの型を外さない限りは、世に出てくることはありません。

いずれにしても、この視点の持ち方は、特に若い人には是非知って頂きたいことの1つであり、これが上手くできるようになれば恋愛も仕事も上手くいきやすくなり、世の中のも良くなるので、是非とも自分なりのイメージを持って理解して頂けたらと思います。

もちろん、自分自身も完全に出来ているわけではなく、今も尚、エゴを少なくし、より平等で中庸の視点が持てるように努力中ではあります。



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