Friday, May 3, 2013

神言会の新たな軌道が楽しい

わたしは神道では伏見稲荷大社に御縁があり、伊勢の伊雑宮と外宮に気持ちが添います。

般若心経千枚書写行を不足ながらも終えて、
老いて今、4つのセクションの1つにリンクをつなげたのが曹洞宗の御坊様のブログでした。

わたしは以前からカルマを信じておりました。神道より、そういう教えに心が添うのでした。

そして神言会さまが、伏見稲荷大社にで御修業されて、今は曹洞宗の門徒であられると知りまして
吃驚いたしました。

ありがたい御縁だと思います。
このところ体が重くて掃除もしんどいのでございますが、ありがたい記事の数々に助けられています。



カルマの分割払い(三時)と肉体と魂の御先祖霊


今回、私は曹洞宗の門徒として曹洞宗の御経に触れていまして、日本神道では解らなかった一面に触れました。その一つに【三時】がありました。


その【三時】で調べると解りませんでした。これは「三時」ではなくて、【三時業】のことでした。
三時業とは、
・順現業(じゅんげんごう)−現世において受ける業(カルマ)。曹洞宗では順現報受(じゅんげんほうじゅ)。
・順生業(じゅんしょうごう)−次の生で受ける業。曹洞宗では順次生受(じゅんじしょうじゅ)。
・順後業(じゅんごごう)−三回目以降の生において受ける業。曹洞宗では順後次受(じゅんごじじゅ)。
すなわち、私達が過去世で犯した罪による業(カルマ)は、今生において支払う分。次の世において支払う分。そして、三回目以降に支払う分があるということなのです。つまり一時で全部は返せないので、三回の生を持って支払うローンのような話なのです。
この三回は定まっているので「定業」と呼び、他に報いを受ける時期が定まっていないものを「順不定業」と言っているわけです。
これを見ると、明らかに仏教は「輪廻転生」を説いているにも関わらず、仏教は輪廻転生を説いていないと主張する方が多かった事実に対して、完全に仏教が形骸化しているとしか考えられません。

曹洞宗の「修証義」においては、「仏祖の道を修習するには、その最初よりこの三時の業報の理をならいあきらむなり」とあります。まず、仏の教えを知るには、最初にこの三時業(カルマの支払い)のことをよく知っておきなさいです。
次ぎに「修正儀」は説きます。解り易く意訳しますと「しかあらざれば多く誤りて邪見に堕ちるなり。ただ邪見に堕ちるのみに非ず悪道に堕ちて、長時の苦を受けます」。このことを知っていないと、誤った見知にはまってしまいますよと言うことなのです。

しかし、私達日本人はほとんど仏教徒ですが、こうした話は聞いていなかったがほとんどでしょう。私も今回知ったほどなのです。つまり、僧侶達も檀家信徒に面と向かって三時を説いていないのです。仏教では、今は末法期でお釈迦様の説かれた教えも形ばかりで形骸化し、正法が知られていないということも「三時業」を考えれば、そうしたことが言えます。
一部に、自分は仏教で悟りを得た聖者のような顔をして説かれる方がありますが、変ですね。こうした三時の話を聞いたことがありません。でも、その人を聖者の様に拝する人は後を絶ちません。

スピの世界では、「あなたの前世」はという商売が流行っていますが、実際問題としては嘘八百並べて言っても解らないが本当です。仏教の「三時業」の教えを見れば、貴方の前世のカルマを取りましたと言われても、今世分を取ってもらっても来世分はどうするの?。次の世の分は?。となります。スピそのものがこの「三時業」の教えなど知らない教えなのです。

だが、この【業による因果】とは、何も自分が過去世において犯した罪だけが「応報(目には目・歯には歯)」として現れるのではないのです。

自分が生まれた家系が背負っている【業による因果】が存在してきます。そこに因果解消の【菩薩道】も存在してきます。これが意外と知られておりません。為に誤った因果応報を言われる方がありまして、時にはそれが世間に悶着を起こすことがあります。

例えば、自分が被差別部落に生まれた時、お前は前世で人を差別したからだと言う意見があります。必ずしもそうではないのです。そうした差別社会を無くそうとして、そうした家系に降りて来られる魂もあるのです。自分が身をもって差別される苦しみを知らないと、差別と戦えないからです。

被差別部落とはいわれの無い話です。古代において戦いに負けた者達が勝てば官軍・負ければ賊軍であまり人が住まない川原とか山奥の僻地に追いやられた出来事で有り、個々の犯罪とは何の関係も無いのです。魂的に見ると、そうした歴史的なことも学ばないで差別する方の魂とは劣っているのです。何事も学べば自分が誤っていたと解る話です。

それには、まず自分が置かれた立ち位置を知るのではなくて、認識する必要が出て来ます。誰でも解る当たり前のことではあるのですが、残念ながらスピ系ではまったく理解していない方を多々見受けられます。




誰が見ても当たり前の図です。私達は突然に肉体を持ってこの世に現れるわけではないのです。自分がこの世に生存するのには父母が存在し、その父母にも父母たる祖父母が存在しています。その祖父母にも父母があって曾祖父母が居ます。その曾祖父母にも父母である高祖父母が存在します。
これは自分を初代とした場合の話で、民法で言うところの親族の親等計算ではありません。この先祖の言い方を間違われる方があります。自分の子供は二代目とか呼ばれるはずです。孫は三代目ですね。すると、自分の父母も逆に見ると二代目なのです。祖父母は三代目なのです。
私達は御先祖様と言った時、どうしても直系の御先祖様ばかりに目が行きますが、自分の肉体に流れている血脈とか肉体の遺伝子はこうした御先祖さんの流れを受けているのです。
そうなりますと、御先祖様は無限に広がるのですが、だいたいの論として六代前位の御先祖霊は輪廻転生の中で生まれ変わっておられる可能性がありますので、それ以上はあまり考えなくてもいいわけです。
仮に27代前で遡りますと、それまでの累計御先祖霊は現在の日本の人口並の一億三千万体からになってしまいます。一代37年と計算しても僅か千年ほどです。

無論、御先祖は生まれ変わっていると決めつけも出来ません。何故ならば輪廻転生の中に入らず、何百年とか何千年とか何万年と霊界で存在しておられる方もあるにはありますので、全ての霊が輪廻転生の中に入っているのではないのです。



ある夜、夢を見ていてその光景とは五万年前の私の身に起きた出来事です。翌日二番目の師匠の元で霊媒通しをしたところ、その夢の中で出て来ていた霊はやはり五万年前の話をします。それを見ていた当時の師匠が何と猿顔の男だなと言います。私の夢の中ではその男はフードを被っていたのですが、それでも見えた猿顔に私も最初は猿かとギョッとしていたほどです。その霊は未だ当時から生まれ変わってはいないと言います。何故に私の前に出て来たかと言いますと、五万年前のある戦闘で貴方を助けたことを忘れないで欲しいでした。しかし、五万年前と言われても弱るわけです。

今の人類だと知らない古代であり、聖書に残る水の審判と呼ばれるものがあったとすれば、それ以前の話でしょう。

私の父方の叔父が某神宮に参拝したところ、勅使門が開けられて、そこから出て来た某神宮の方が叔父を呼び意味が解らずに着いて行ったところ、天皇家関係者以外は昇段禁止の場所から神殿に上げられて宮司が付き添っての参拝になったと言います。

あまりの不思議に叔父が宮司さんに理由を尋ねたところ、その宮司さんいわく。御神霊から何月何日何時頃に斯く斯く然々でこうした者が参拝して来るので、勅使門から神殿に上げるように御神霊から承っておりますのでと言われて面食らったと言います。私も叔父も血脈は一緒のはずなのですが、何故か私にはそうした厚遇の体験はありません。

叔父はその不思議に霊能者の方に家系の流れを調べていただいたところ、ある天皇に当たったと言います。私はその話を叔父から聞いて、私の家系は清和源氏の流れの丹波源氏の郷士ですから天皇系に辿り着いても別に不思議ではないし、日本国民ならば皆御先祖の御先祖と辿っていけば御先祖のどこかに天皇家に縁があっても何等不思議な話ではないでしょうと一蹴しておりました。

この話をある霊能者の方に話しましたところ、某神宮でしょう。あの神宮の宮司さんは御神霊と会話が出来るので、私も参拝した時には御祭神の大国主命様との関係から勅使門から神殿に上げて貰いましたと言われていました。

つまり、私達は御先祖を言う場合家系の直系だけを見ているので、とんでもない数の御先祖さんがあるということに気づいていないわけです。今、自分がここにあるのは御先祖様の御陰です感謝される方があります。

だが、それは直系だけの御先祖を見ているのであって、母方を見ていないわけです。自分が今ここにあるということは、とんでもない数の御先祖様があっての話なので、もっと大きな視野で見なければならないのです。そうなれば社会に対する感謝も湧くわけです。

一般的に各自の魂の「カルマ」は個人の過去世に犯した悪業によるものが多いのですが、個々の個人の魂によるカルマではなくて、自分が生まれた家系に溜まっているカルマの消滅の為に出る魂も存在してきます。

そうした時、何もそんなカルマが溜まった家系に生まれ出てカルマを解消する為に苦労する必要はないだろうという意見になろうかとは思います。

霊界でも高い世界に進む修業は出来ますが、その歩みは遅いのです。それは霊界における各自の世界は同じ想念の者だけが集まって社会を創っている為に、どうしても横並び、ドングリの背比べで抜きん出ることが出来ません。

しかし、地獄の様な状態に入ってしまう家系のカルマの中で、その家庭のカルマの解消を勤め上げた魂は霊界に入れば「菩薩」の様な立場に変わってしまうのです。

自分は何でこんな地獄の様な立場にあるのだと悲観される方がありますが、それは自分が選んだ「菩薩道」かも知れませんし、自分が覚えていない前世のカルマを解消すれば前途洋々なのです。一時の「苦」に負けては行けないのです。

私達が持っている【意識】は肉体の命が終われば、それで終わりではありません。それからが永遠とか不滅とかで言われる魂で霊界にと渡ります。

では、先程の家系図を逆さにしてみましょう。今度は肉体側から見ずに、霊界側から見るわけです。


この図は単に先出しの図を回転させただけで、魂の分裂に関しましては「一霊四魂」の法則に基づいてきますので、図としては正しくはありません。便宜上です。
魂の分裂図に関しましては、このブログの【自分がいと小さき者と知る為に、魂の分裂図】の中に、大本教霊界物語で示された図が入れてありますので、それらを参考にしてください。



自分がいと小さき者と知る為に、魂の分裂図

スピを称している方全員ではありませんが、一人一人が創造神なのです。何でも好きなことが出来るのです。創れるのです。そうしたことばかりを明けても暮れても説いておられる方達があります。そして、そうしたスピの教えに拍手している人達が多数おられます。
これらは、いくら言っても解ろうとしない人達と言えます。

それはイエスが説く、自分は【いと小さき者】を理解していない人達と言えるでしょう。

日本古神道では【一霊四魂】を説きます。しかしながら、神主を職としている方達がそれを理解されているかとなった時、よほど大きな大社等に勤務されている神職の方は別として、それもあまり理解されていない節があります。それは神職を仕事にしていても、本当に神霊の姿とか神力を知らない方が大多数だからでしょう。
私が伏見稲荷講で教師養成講座で学んだ時、神職で豊受様とウケヒが出来る権禰宜さんが一人居られました。伏見稲荷大社にはたくさんの神職が居ても、神とウケヒが出来るのはその権禰宜さんたった一人だけでした。神社に勤めたからと行って、誰もが神が解るわけではないのです。

その権禰宜さんが豊受様から授かられた神力とは、教師養成講習会に来ている霊能者達が、どうにも勝てないのです。自分は不動尊行者で神通力者だと称している生徒達が、皆、術の講座で負けてしまうのです。私の師匠は養成講座に差し入れに来て、あの方に術で勝てるはずがないだろうにと笑っていましたが。
神社本庁も大卒でないと神官にしないという頑な態度であれば、優秀な霊能者達が神職に成る道が閉ざされます。優秀な霊能力者は子供の頃から神の試練の元に置かれていて、貧しさに学校もろくろく行けなかったしているからです。甘やかされて育った者には神は理解しがたい面があるのです。
それでは神が解らない神社となるだけです。そして優秀な霊能者達はスピの道に流れてしまうわけです。しかしスピの怖さを知らない人が金儲けだけでスピ講座を開くので、メチャクチャになるわけです。

あるスピの講座で大金を出した生徒さんが、自分もヒーラーとして大金を取れるような腕になった。教え主と生徒さんで、互いにおめでとう。おめでとう。これまでスピ講座に大金を注ぎ込んで来たから、これからはその分を取り返そう。それは神を知ろうとしている道ではないのです。

下記の図は大本教霊界物語第六巻、第二六章「体五霊五」における【魂】の分化を示すものです。現在霊界物語は著作権が切れていますので、インターネット上でも読むことが出来る様になっています。これは私が持つ霊界物語からのコピーです。



現在、地上世界に出ている私達の魂とは魂の分化分裂の繰り返しの中で、【創造神】と呼ばれる神の存在からは遙かに下の次元に所属している魂なのです。その分裂までには天文学的分裂があったと思っていいでしょう。人はその前世を全部思い出せして上に進んで行けば、理論的には創造神に辿り着くことにはなります。
自分は何万回輪廻転生した。何十万回輪廻転生した。では、分裂して来た過程を全部語れるのですかと言われたら語れないでしょう。まして、ここまで分裂を繰り返して来た以上、その数字は天文学的数字となるのです。

スピの一人一人が創造神なのです。何でも創れるのです。そんなバカな教えに引っかからないようにしてください。それではスッポンが月に向かって、俺と同じ大きさだろうと言っているようなものです。
私達の魂が創造神と呼ばれる神に出会える段階まで進むには、正守護神・本守護神と呼ばれる自分の【魂の先祖】たる存在に同化されて行って、それからの話なのです。次元を上がって行かないといけないのです。

皆さんの魂には、魂の御先祖たる魂があるのですよ
肉体の御先祖だけが、自分の御先祖ではありません。

ここまで何回も書いていますが、私達の肉体に入っている魂とは人である以上、その大きさはほとんど変わらないのです。だが、私達の魂とは肉体にある部分だけではありません。肉体の外にある部分もあるのです。
例えばその外の魂が直系20センチの方と200センチの存在では10倍ではなくて、1000倍も違うのです。それは前にも書いた大きな歯車、小さな歯車の話です。大社と呼ばれる神社に鎮座される御神霊の玉ともなれば、それは大きな玉になります。だが、創造神ともなれば、その大きさは天文学的数字の違いになります。一人一人が創造神などではないのです。

イエスがと説いたように、自分はいと小さき者であると理解することが大切なのです。



_以下に

カルマの分割払い(三時)と肉体と魂の御先祖霊

続きを転載します_


この宇宙の初発に「意識」が存在しました。その意識が【想像神】であり、無から有が生じて「1・2・3」の仕組みをもって【創造】にと走ります。神は元々は唯一であり、この場合は「一霊四魂」ではなく、造化三神としての神の働きなのです。唯一神と陰陽の働きです。その状態を「ひふみ(一二三)」と言っているのです。

そして魂は分裂を起こして増えて行き。種々の分かれを起こして行きます。仏教においてはこの世のあらゆる物に霊性が有ると説きます。それは元は唯一であって、一つの物が分裂してきたわけです。
その分かれにおいて「区別」が生じてきました。神は全てにおいて平等だと言い回っているスピの人達がいますが、差別と区別の意味が理解出来ていないようです。

蜂は女王蜂とか働き蜂とか軍隊蜂と定められて誕生してきません。女王蜂によって産み出された幼虫に与えられたローヤルゼリーで次の女王蜂とか働き蜂とか軍隊蜂の役割に従事するわけです。これらは差別ではなくて区別なのです。

魂が人として生まれて来る。猿として生まれて来る。犬として生まれて来る。猫として生まれて来る。これらは魂の差別化ではなくて本来は区別化なのです。

日本の六根清浄の祝詞では、【天地の神と同根なるがゆえに、万物の霊と同体なり】とありますが、そういう区別の話なのです。その区別化は神によるものなのです。



仏教では【転生】が説かれますが、蛇霊や狐霊や狸霊と成るのも自己の魂の過ちからカルマが生じて霊的に「転生」している話なのです。ですからその魂が悔い改めてカルマの浄化をすれば、元の姿と成って元の界に戻ることも可能となるのです。神は愛で何でも赦すではないのです。

大本教神諭に枝葉の神の教えが栄えて、根元を枯らしてなんとするがありますが、根元と呼ばれる「根元たる唯一神」があるのです。その「根」が無ければ何も成り立たなかったのです。その根の意味が「艮(ウシトラ)」の意味であって、私達の個々の「魂」論を為すのです。

今、この地球上(三次元物質界)に存在する私達肉体の中にある魂とは、魂の世界としては【根の国・底の国】に追いやられているわけです。

きついことを言われる神通力者さんですと、宇宙の出来そこないの魂が集まっている世界だです。また魂の「刑務所」と言われる方もありますが、神の意図にそうした世界でも神の天国世界を創ろうとされた意図があったのです。この三次元世界が「型」世界であることは、型たる刑に服しているのです。その刑の世界で、面白ければと遊んでいたのでは、さらにその刑は重くなるだけなのです。

創造神の意図(糸)は私達には図るわけには行きませんが、魂の分裂の過程の中においては物質世界のこの世は下の世界に組しています。そこから、唯一神にと向かって魂の先祖の段階にと進むわけです。



よく言われる神人合一とは、自己の魂の分裂の過程におい五次元世界以上に存在する自分の魂に合一する話をしているわけです。自分の肉体が五次元世界に上がるのじゃないのです。どこまでも五次元以上の自分の魂に合一なのです。元の高次元世界にと帰って行く話です。これが本守護神とか正守護神と呼ばれる存在なのです。
その存在が出て来たならば、それが自分の魂で有るとは解るのです。いきなり私達が創造神の段階に辿り着くなどはあり得ないことなのです。

自分が高次元の自分と合一した時の話であれば、五井昌久師の著書にも記載されています。体験すれば五井昌久師が言われている合一話は嘘ではないと解ります。だが、今の三次元地上世界でその状態で暮らせるかと聞かれたら、とても無理です。この三次元世界の肉体は高次元世界の肉体としては不向きなのです。



No comments:

Post a Comment

Note: Only a member of this blog may post a comment.