Sunday, September 30, 2012


発展と成功



その裏では何が起こってきたのか?...1960年代から2005年までを振返ります。しかし全貌を一度にふりかえることは無理なので、ある部分だけにします。


働き詰めで家に居ない亭主がいる家庭。
職種によっては外面を大事にして家庭という内情は地獄だったったり、事業の発展のために家計費を削除しては妻子を犠牲にした旦那方もいただろう。

やはり、男なら家族を養えるようになってから結婚という結びを生むのが、良心的であり最善だということが解ります。

稼いで財布具合が良くても、心具合がいけないならどうなるでしょうか。
家に運ばずに仕事のつきあいで消費するから「ま、いいや」となったり、外部との交際が多過ぎて妻子との気持ちの育みというものを無視したりと、色々様々な弊害を起こすようです。

これでは、家族の経済も心も豊かにする助けにもなりません。家族という一心同体に成り得るチームを亡失しています。自身を捨てていることにも成ります。

そんな具合と備え無しですから、奥方が他の殿方に惹かれても文句は言えません。
女性の母性と理性ばかりに期待をし、好き放題をしているのに、笑顔で貞節を守る奥方であるように期待するのは男として愚かであり最低です。

やはり男なら、ましてや年上ならば、結婚した以上は妻子を第一に守るべきです。


ある例をあげて言えば、どんなにスターというタレントた歌手を育てて世に出す債務を背負うとしても、最低でも妻子とそれらを同線上の大事に置いて、護り守るべきです。

しかし、スターを育てるために心血を注ぐというのは、そんなグラウンドが家庭の置き換えにはなるようです。

育ったスターは中心になって昼夜働く裏方スタッフの家族の苦労など知りません。
スターを開発商品や輸出機材などに置き換えて想うのも奇妙ではありません。

ただし、感情を表現できる人間のスターを育てる仕事とは、商品開発と同等には見れない点が多いです。駄々もこねるし、エゴも出す。十分に育った今を見るだけでは、そのスターの影軍団の労苦など理解できないでしょう。

メインのスタッフは家族のように成り得ても、そんなスタッフの家族とは顔も合わせることも無いでしょう。
賑やかな親睦パーテイなど、裏方の妻子には無縁だからです。

少なくても昭和時代の東京のある一部ではそうでした。苦い思い出だけが蘇ります。
あの当時の東京とは、いったい何だったのでしょうか?

本当に、影で歯をくしばっていた奥方や泣いていた奥方、単身で子育てするのと何ら変わりない苦労をされた奥方もいたのです。

派手な場所に出る服も買えない経済状態では、メンツがある亭主さんの身なりを整える出費のやりくりで苦労したはずです。

スターを世に出す亭主の仕事とは裏腹に、共稼ぎをしなければ物価高においつけない家庭もありました。実家に世話になった奥方もいたことでしょう。

他の男性の胸に甘えた奥方がいたとしても、責めることなどできません。
それほど退廃的で家庭を忘れてワークホリックにならなければ発展に追いつかない世界が、事実存在したのですから。

ある会社のトップには、社員には給与を出しても、家庭には半分ほどしか運ばないという人もいたのです。
会社に成るまでの昔からの奥方の苦労を知らない女性社員の中には、嫌悪や憎悪まではびこったようです。

たまたま訪問したその会社のトイレはすさまじく汚れていました。見た瞬間に目からも反吐が出そうになるぐらいでした。
私自身は、黙ってその会社との縁に見切りをつけて、後は成るに任せました。

トップである旦那さんが「お前は嫌われているから会社に来るな。」と奥方であった人に申し渡していたそうです。
穢れた場で集合する人間たちの巣窟には歓迎されない奥方だったか。

完全純潔でなかった奥方にしても、それは川を挟んだ分離のようであり...私には良いことだった気がします。

また、精神的にまだ熟していなかった奥方が、孤独感にさいなまれて、栄養失調でもあったのか?...生活を楽しむことが不可能だったのが当然のように思います。


その会社はトップに惚れた女子社員が片腕になり始めてから、勤務上の妻と思い上がるあたりまでは保ちましたが...トップもその社員の女心といいますか、欲望と願望に応じ始めてからは、会社も衰退に向かったように思います。

一時期は毎晩のように2人を交えた飲み会がもたれていたようです。こういうことも発展する過程にはつきものなのでしょうか?...幽界にはつきもののようです。


会社設立以前から裸一貫で苦労をさせてきた奥方が去ってからの話ですが、その社員と結局は、籍だけは内密で入れて内縁となり、やがて奥方が住んだその地に帰るかどうかの危機を迎えた時に、今まで時期を待っていたとばかりに虚偽の「結婚宣言」をお子さん達にしたようです。

入籍していることを秘密にしておいたのは、敏感な世代の息子さんのためを想ってしたことなのか、「やっぱり母さんが言っていたように2人は...」と成人していた別のお子さんに気つかれるのを避けたかったためなのか。ま、どちらにしても奥方は数度の接近の最中に、すでに2人が以前よりも深い関係になっていることを知ったそうです。
2人のその内密のドラマ仕だてを直観で見破ったのでしょう。

お子さん達はそれを見破ることができずに、母親を再び悪者や弱者に見せた2人の手と口に乗ったようですが、そのあたりのことは私にとっては全くの憶測推測です。
流れから想えば、有り得るとは思います。

上記の全ては40年前から約10年前までの、30年の間のつまみ話です。

あとは、それぞれのバルドーに御任せしましょう。私には私が見聞きしたことも含めて経験した事だけが真実ですから。

それでも、なんだか戦国時代の争いに似ているような錯覚に陥ります。
親族のあいだだろうと、歴史は繰り返される。本当やもしれません。



ある目的の為の発展。アップした伊勢ー白山道様の興味深い記事の内容を思いました。

発展の密の味を逃した人々、家庭という影の中で泣いていた妻子たちは、何のために物質的繁栄と発展の時代に生を受けてきたのかという疑問に当たりました。

さらに記事の内容と自身の経験をみつめてみたいと思います。


何があっても、まだ生かされています。ありがとう御座位ます。


ある目的の為の発展

2008-02-25 21:14:59 Weblog
読者より :
広い意味での日本の精神性の歴史の中で、次の時代の魁となった人物は
どうも皆、この伊勢ー白山ラインを横切った人のような気がします。
一体いつからこのラインは作動しているのでしょうか?特に、鎌倉期が気になり
ます・・・?
返答 :
伊勢ー白山ベルト地帯を、日本近代の経済面から見ても、
面白い点があります。
鎌倉時代から近代にかけて活躍した
近江商人や、江戸期
伊勢商人。白山ラインの延長先にある富山県は、現代の
大企業の創業者を多数輩出しており、また平成の名古屋は
世界的企業を抱えた経済の強い地帯です。
これらは全て、伊勢ー白山ライン上に在ります。
大昔から、伊勢白山ライン地帯で誕生した人間が、日本の
経済の基礎となる販売システムを発案したり、海外にも視野
を向けた冒険心に富んだ商売を実践されてきました。
日本列島の真ん中。 大龍神の御腹に当たる地域です。
この伊勢白山ラインの波動は、根源の存在からの
「産み出す」「再生・発展」の波動が放射されています。

伊勢神道も鎌倉時代に起因したように、日本神界では鎌倉期
に大きな動きが有りました。
私は、2013年の伊勢神宮の遷宮が、従来の形での最後の
遷宮になると神霊から告げられています。 
これは、鎌倉時代の頃の神界で起こった事が、現代の今の
時代から現実界に転写されて、これから来ます。
鎌倉時代頃の神界で起こった事を、神界の上層の神霊が観
た結果、現実界で生きる日本人が、最後の遷宮を迎える時代
に向けて、経済的に食える時代を経験した魂の次の段階とし
ての精神性の発露を期待して、まず経済を盛り立てる様に
作用しました。 
食うや食わずの状態では、一般の人間には、精神性の向上
は望めません。 
多くの人間は、食える様に成ると、「我良し」が益々進むよう
ですが、これからは生かされている原点を、各人が嫌でも見
るように時代が流れて行くでしょう。
神霊が自然破壊と引き換えに、経済を盛り立てて期待した事
は、生かされている感謝の気持ちを人間が発することでした。

生かして頂いて ありがとう御座います
勉強させていただきましょう。以下にコピーペーストします。

伊勢商人

伊勢商人(いせしょうにん)は、大阪商人、近江商人と並ぶ日本三大商人の1つである。
江戸時代伊勢国出身の商人で、安土桃山時代16世紀後半から、
本所となる伊勢以外にも江戸大阪京都などいわゆる三都に出店し日本全国に商売のネットワークを広げていった。

概要 [編集]

伊勢商人として、最も代表的な存在は 江戸に呉服店越後屋を出店し
三井の基礎を作った三井高利である。
伊勢商人の屋号は主に「伊勢屋」「丹波屋」など。
江戸では主に伝馬町界隈に出店する事が多かったようである。
又江戸では伊勢出身の商人はかなり多かったらしく
「江戸名物は伊勢屋、稲荷に犬のふん」と言われていた。
伊勢商人は、元々、

戦国時代中期から日本に流入してきた木綿を全国に出歩いて行って


売りさばいていた存在であった。


当時の木綿は高級生地であったため、これらから得た利益が


彼らを豪商と呼ばれる存在へと高めていった。


木綿・呉服のほか、材木・紙・酒を扱った伊勢商人がおり、


金融業・両替商となる者もいた。

伊勢おしろいも主な取引品目の一つである。
江戸時代前期に当たる寛永年間から中期に当たる元禄年間にかけて、
続々と江戸や大阪、京に出店するものが現れた。
これは江戸幕府による支配が安定し、経済制度の整備が進められた事を反映している。
伊勢商人のキャラクターとしては彼らの商売はかなり手堅かった事から
「近江泥棒、伊勢乞食」と言う言葉が残されている。
近江商人はがめつく、伊勢商人は、貧乏な乞食のように、出納にうるさいと言う意味。)
又伊勢商人独自の情報ネットワークが指摘されており、
特に伊勢参りに向かう人々が安濃津松阪を経由していく事から、
彼から諸国の情報を手に入れられた事が伊勢商人の発展につながっていると見られている
(なお、『今昔物語集』や『人国記』には伊勢人は親をも騙して財物を奪うと記載され、
これを「伊勢乞食」の語源とする説が見られるが、前者は物語作者の主観でしかなく、
後者は諸国人への皮肉と誹謗が多く見られる書物であることから、
ともに創作の域を出ず根拠としては不適切である)。

 伊勢商人の流れを汲むとされる主な企業  [編集]


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近江商人

近江商人(おうみしょうにん、おうみあきんど)または江州商人(ごうしゅうしょうにん)、
江商(ごうしょう)は、主に鎌倉時代から昭和時代(特に戦前期)にかけて活動した
近江国滋賀県出身の商人

大坂商人伊勢商人と並ぶ日本三大商人の一つである。

現在でも俗に、滋賀県出身の企業家を近江商人と呼ぶことがある。
通常、近江国外で活動した商人のことを近江商人と言い、
活動地域が近江国内に限定される商人は「地商い」と呼ばれて区別された。

目次

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概要 [編集]


などの出身者が多数。


なかでも得珍保延暦寺荘園)を拠点とした保内商人の活動が


近江商人の前駆となっている。


初期の頃は京都美濃国伊勢国若狭国などを中心に行商を行っていたが、


徐々に活動地域や事業を日本全国に拡大させ、中には朱印船貿易を行う者も現れた。


鎖国成立後は、京都・大坂江戸の三都へ進出して大名貸醸造業を営む者や、


蝦夷地北海道)で場所請負人となる者もあった。


幕末から明治維新にかけての混乱で没落する商人もあったが、


西川産業のように社会の近代化に適応して存続・発展したものも少なくない。


今日の大企業の中にも近江商人の系譜を引くものは多い。

その商才を江戸っ子から妬まれ、伊勢商人とともに「近江泥棒伊勢乞食」と蔑まれたが、
その実は、当時世界最高水準の複式簿記考案(中井源左衛門・日野商人)[1]や、
契約ホテルのはしりとも言える「大当番仲間」制度の創設(日野商人)、
現在のチェーン店の考えに近い出店・枝店を積極的に開設するなど、
徹底した合理化による流通革命だったと評価されている。
近江商人は道徳や規律を重んじ、様々な理念が各商家ごとに家訓として伝えられてきた。
よく知られた近江商人の理念に
「売り手良し、買い手良し、世間良し」の「三方良し」が挙げられ、
三方良しの理念が確認できる最古の史料は、1754年に神崎郡石場寺村
(現在の東近江市五個荘石馬寺町)の中村治兵衛が書き残した家訓であるとされる[2]
ただし、「三方良し」は戦後の研究者が分かりやすく標語化したものであり、
江戸時代や明治時代に「三方良し」という用語は存在しなかった[3]

近江商人の流れを汲むとされる主な企業 [編集]

書籍 [編集]

映画 [編集]

  • てんびんの詩:竹本幸之祐脚本のビデオ映画。
  • ある近江の豪商に生まれた少年が鍋蓋売りの労苦を通じて一人前の近江商人に成長するストーリー。社員研修の教材となることが多い。

脚注 [編集]

  1. ^ 小倉栄一郎『江州中井家帳合の法』
  2. ^ 三方よしの原典
  3. ^ 三方よし研究所 情報誌「三方よし」36号

関連項目 [編集]

外部リンク [編集]