仏教にも存在する〇十 日蓮聖人と霊狐
0
- 2013.05.29 Wednesday
- -
- 15:38
- -
- trackbacks(0)
- -
- by 上野公園
私は霊能者と呼ばれる方とは違い、霊的なものを見て人助けの道を歩んでいる者ではありません。真理を求めている探求者と言えます。
私が子供の頃に姿無き声から告げられたのは、そなた一人だけにはこの神の仕組みを見せてやるなので、この世にどのような神の仕組みがなされているのかを調べるお役と言えます。その一つが大本教神諭予告の「九つ花」と言えます。
豊受の神からは、貴方に教えが出来る神は存在しないと告げられて、神々も知らないことをどうせよと言われるのか、ただただ困惑を続けて来ました。
昭和五十五年、私が神霊世界に足を踏み入れる切っ掛けとなった摩訶不思議な出来事に遭遇した時、私の目の前に三体のお坊さん姿の方が顔を出されました。その三体のお坊さんの真ん中の方が横向きで立ち、脇の二体の方の一体が半膝立ちでその正面に対峙する形で向き、もう一体の方がやはり半膝立ちで後ろから見ておられる姿に興味を持ちました。
後で気がついたのは、それは「立心偏の心」の字を意味していました。言うなれば「心」の字を建てなさいです。
その御三体を見ていまして、真ん中のお坊さんが師匠恪で脇のお二方はその弟子であるとは解りましたが、当時はどなたかが解りませんでした。
複数の霊能者の方を通じて調べていただいたところ、御三体の真ん中の方は私の祖父は養子なので私と直接の血脈はないのですが、私の家系の五代前の御先祖霊さんであるとまでは解りました。だが、記録的には私の家系にお坊さんになった方がありません。しかも弟子を持っているなると、かなり名があったと見受けられますが家系には何の記録もありませんでした。また霊能者の方からも、お坊さんの姿をされているけれどもお坊さんではないと言われます。ただ、家系の過去帳から推察すると「妙見」信仰であった節がありました。
ところがその御三体を見ていると、二体の弟子格の方のお坊さんは日蓮さんの直弟子で名があるお坊さんで鎌倉時代の方と解って来ました。鎌倉時代の日蓮さんのお弟子さんを両脇に従えて五代前の御先祖霊が出て来られるなどは、もはや時代的にも意味がさっぱり解りません。つながりません。
その真ん中のお坊さんが私に「自分は身延山の西谷に祭られている。一度、私の元に参って来て欲しい」と言われます。身延山の西谷と言いますと、「日蓮」さんのお墓がある場所ですが、私の家系は日蓮宗ではなくて曹洞宗。五代前の御先祖霊が死後に身延山の西谷にその魂が行っているのかと思っていました。
その真ん中のお坊さんが出て来て見せられる光景の中で、そのお坊さんが「白狐」を飼っておられる光景が出て来ました。霊能者と呼ばれる方には白狐にかしずいておられる方が多いのですが、このお坊さんは白狐を飼っておられる。こうなりますと多くの霊能者の方のランクではありません。これはどういうことだろうと考えておりました。
出雲大社教の先生の元にお伺いに行ったところ、貴方に守護霊として就いておられる五代前の御先祖霊さんは、何も出雲の神に頼らないでもよいだけのお力をお持ちですと言われます。私にすればまるで意味が解りませんでした。
私の家の仏壇を拝んでいまして、蓮の蕾が見えて来たかと思うと、それがパット開いて白蓮になると同時に金文字で「日蓮」「日蓮」と点滅します。これは何事かと最初の師匠の元に行きましたところ、貴方の五代前さんは日蓮さんの御分魂だったのです。それで貴方の前に「日蓮」さんが直接に出て来ておられたのですと言われます。
それで、御三体のお坊さんが出て来られる時、真ん中が「日蓮」さんの時もあれば「五代前の御先祖霊」の時もあったわけです。ただ、どちらでも鎌倉時代の日蓮さんのお弟子であった霊がその側に従っておられたので、私にすればまるで意味が解らなかったと言えます。
日蓮さんと思われる霊から「身延山の西谷」に参って来る様にと言われていたので、3年前に身延山に参拝を計画しましたところ、自分でもこれは危ない。参拝に対して妨害が起こる。私が車を運転すれば高速道路で大事故の可能性があると感じて、そうしたものを受けない方に旅の費用は私が全て持つので私の車の運転を頼んでおりました。
ところがその一週間ほど前に母親がベランダに近づくと落ちる夢を見ながら、ベランダに近づいて落ちるケガをして、妨害が私ではなくて母親に行ってしまったことで参拝中止となりました。その後寝たきりの母親を自宅で3年間ほど看病を続けて霊界に見送りましたので、今度は妨害が無いと解りましたので、その時に運転を頼んでいた人との約束も果たすべき身延山西谷に参拝して来ました。
その身延山奥の院に霊狐社が存在し、日蓮さんと霊狐の関わりが書かれていました。それが白狐とは書かれていませんが、一般的に神界に関わっている霊狐の多くは白狐であり、私が見た霊的映像からしても白狐と思われます。
日蓮聖人は妙見でも解る様に国常立尊と深い関わりがあり、その配下となる白狐が日蓮さんをお守りしていたと考えられます。
日蓮正宗さんは霊狐は邪神扱いなのか外道扱いなのか詳細は解りませんが排除されています。一方日蓮宗では最上位経王大菩薩や常富明神などの名前で祭られています。霊狐を否定する日蓮正宗の方を見ていて、日蓮さんはどうだったのだろうかと疑問を持っていましたが、参拝して日蓮さんの立ち位置が解りました。
その後に「西谷」の日蓮さんのお墓に参拝して、やはりここに日蓮さんは居られる。やっと日蓮さんとの約束が果たせたと感じたしだいです。
私達は日蓮さんと言うと、どうしても創価学会さんの教義で評価してしまうところがあります。私の母親も一時創価学会さんに入信して、家の神棚や仏壇を壊されたことで私が怒って退会させました。
私は日蓮さんが私を大本教教学に導かれたような気がしてなりません。また日蓮宗系の霊能者の方からも貴方は大本教に入って、内部から大本教を変えなさいと言われてしまいましたが、大本教だけでは「国常立尊」と呼ばれる神のことが解らないと言うことのようでした。
私が霊的世界に関わって驚いたことは「南無妙法蓮華経」の七文字も「国常立尊」から来ているということなのです。
身延山頂から見る富士山、当日は晴れていても霞んでいる状態でした。
身延山奥の院の日蓮さんを守護した霊狐を祭る社
日蓮さんと霊狐との関わり説明文
日蓮聖人の墓所
下記の写真は「日本の国体と日蓮聖人」という著本に掲載される写真のコピーですが、明治四十四年に発刊された本の再刷本からです。
外郭の八葉は仏教でおなじみですが、少し見にくいのですが真ん中は「〇十」となっています。
〇十の意味は、別に〇〇家の家紋だという小さな話ではないのです。
私が子供の頃に姿無き声から告げられたのは、そなた一人だけにはこの神の仕組みを見せてやるなので、この世にどのような神の仕組みがなされているのかを調べるお役と言えます。その一つが大本教神諭予告の「九つ花」と言えます。
豊受の神からは、貴方に教えが出来る神は存在しないと告げられて、神々も知らないことをどうせよと言われるのか、ただただ困惑を続けて来ました。
昭和五十五年、私が神霊世界に足を踏み入れる切っ掛けとなった摩訶不思議な出来事に遭遇した時、私の目の前に三体のお坊さん姿の方が顔を出されました。その三体のお坊さんの真ん中の方が横向きで立ち、脇の二体の方の一体が半膝立ちでその正面に対峙する形で向き、もう一体の方がやはり半膝立ちで後ろから見ておられる姿に興味を持ちました。
後で気がついたのは、それは「立心偏の心」の字を意味していました。言うなれば「心」の字を建てなさいです。
その御三体を見ていまして、真ん中のお坊さんが師匠恪で脇のお二方はその弟子であるとは解りましたが、当時はどなたかが解りませんでした。
複数の霊能者の方を通じて調べていただいたところ、御三体の真ん中の方は私の祖父は養子なので私と直接の血脈はないのですが、私の家系の五代前の御先祖霊さんであるとまでは解りました。だが、記録的には私の家系にお坊さんになった方がありません。しかも弟子を持っているなると、かなり名があったと見受けられますが家系には何の記録もありませんでした。また霊能者の方からも、お坊さんの姿をされているけれどもお坊さんではないと言われます。ただ、家系の過去帳から推察すると「妙見」信仰であった節がありました。
ところがその御三体を見ていると、二体の弟子格の方のお坊さんは日蓮さんの直弟子で名があるお坊さんで鎌倉時代の方と解って来ました。鎌倉時代の日蓮さんのお弟子さんを両脇に従えて五代前の御先祖霊が出て来られるなどは、もはや時代的にも意味がさっぱり解りません。つながりません。
その真ん中のお坊さんが私に「自分は身延山の西谷に祭られている。一度、私の元に参って来て欲しい」と言われます。身延山の西谷と言いますと、「日蓮」さんのお墓がある場所ですが、私の家系は日蓮宗ではなくて曹洞宗。五代前の御先祖霊が死後に身延山の西谷にその魂が行っているのかと思っていました。
その真ん中のお坊さんが出て来て見せられる光景の中で、そのお坊さんが「白狐」を飼っておられる光景が出て来ました。霊能者と呼ばれる方には白狐にかしずいておられる方が多いのですが、このお坊さんは白狐を飼っておられる。こうなりますと多くの霊能者の方のランクではありません。これはどういうことだろうと考えておりました。
出雲大社教の先生の元にお伺いに行ったところ、貴方に守護霊として就いておられる五代前の御先祖霊さんは、何も出雲の神に頼らないでもよいだけのお力をお持ちですと言われます。私にすればまるで意味が解りませんでした。
私の家の仏壇を拝んでいまして、蓮の蕾が見えて来たかと思うと、それがパット開いて白蓮になると同時に金文字で「日蓮」「日蓮」と点滅します。これは何事かと最初の師匠の元に行きましたところ、貴方の五代前さんは日蓮さんの御分魂だったのです。それで貴方の前に「日蓮」さんが直接に出て来ておられたのですと言われます。
それで、御三体のお坊さんが出て来られる時、真ん中が「日蓮」さんの時もあれば「五代前の御先祖霊」の時もあったわけです。ただ、どちらでも鎌倉時代の日蓮さんのお弟子であった霊がその側に従っておられたので、私にすればまるで意味が解らなかったと言えます。
日蓮さんと思われる霊から「身延山の西谷」に参って来る様にと言われていたので、3年前に身延山に参拝を計画しましたところ、自分でもこれは危ない。参拝に対して妨害が起こる。私が車を運転すれば高速道路で大事故の可能性があると感じて、そうしたものを受けない方に旅の費用は私が全て持つので私の車の運転を頼んでおりました。
ところがその一週間ほど前に母親がベランダに近づくと落ちる夢を見ながら、ベランダに近づいて落ちるケガをして、妨害が私ではなくて母親に行ってしまったことで参拝中止となりました。その後寝たきりの母親を自宅で3年間ほど看病を続けて霊界に見送りましたので、今度は妨害が無いと解りましたので、その時に運転を頼んでいた人との約束も果たすべき身延山西谷に参拝して来ました。
その身延山奥の院に霊狐社が存在し、日蓮さんと霊狐の関わりが書かれていました。それが白狐とは書かれていませんが、一般的に神界に関わっている霊狐の多くは白狐であり、私が見た霊的映像からしても白狐と思われます。
日蓮聖人は妙見でも解る様に国常立尊と深い関わりがあり、その配下となる白狐が日蓮さんをお守りしていたと考えられます。
日蓮正宗さんは霊狐は邪神扱いなのか外道扱いなのか詳細は解りませんが排除されています。一方日蓮宗では最上位経王大菩薩や常富明神などの名前で祭られています。霊狐を否定する日蓮正宗の方を見ていて、日蓮さんはどうだったのだろうかと疑問を持っていましたが、参拝して日蓮さんの立ち位置が解りました。
その後に「西谷」の日蓮さんのお墓に参拝して、やはりここに日蓮さんは居られる。やっと日蓮さんとの約束が果たせたと感じたしだいです。
私達は日蓮さんと言うと、どうしても創価学会さんの教義で評価してしまうところがあります。私の母親も一時創価学会さんに入信して、家の神棚や仏壇を壊されたことで私が怒って退会させました。
私は日蓮さんが私を大本教教学に導かれたような気がしてなりません。また日蓮宗系の霊能者の方からも貴方は大本教に入って、内部から大本教を変えなさいと言われてしまいましたが、大本教だけでは「国常立尊」と呼ばれる神のことが解らないと言うことのようでした。
私が霊的世界に関わって驚いたことは「南無妙法蓮華経」の七文字も「国常立尊」から来ているということなのです。
身延山頂から見る富士山、当日は晴れていても霞んでいる状態でした。
身延山奥の院の日蓮さんを守護した霊狐を祭る社
日蓮さんと霊狐との関わり説明文
日蓮聖人の墓所
下記の写真は「日本の国体と日蓮聖人」という著本に掲載される写真のコピーですが、明治四十四年に発刊された本の再刷本からです。
外郭の八葉は仏教でおなじみですが、少し見にくいのですが真ん中は「〇十」となっています。
〇十の意味は、別に〇〇家の家紋だという小さな話ではないのです。
王政復古のかけ声に、さっぱり(薩張)で知る薩長連合
0
- 2013.05.24 Friday
- -
- 17:55
- -
- trackbacks(0)
- -
- by 上野公園
平成大維新と書きますと、通常は「平成(へいせい)」と考えますが、これは「ヒラナリ(平成)」大維新と呼びます。
明治時代に大本教という宗教が起きた時、その霊界物語の中に磐古大神(国常立尊が悪神とされて地上神界の表舞台から御引退された後、地上神界の主宰神の地位に就かれたとされる中国で創造神と言われている神)から、国祖・国常立尊様に神政の【大政奉還】という内容が出て来ます。
私は鍾馗神のご案内で数千の将軍を引き連れた「磐古大神」という神霊に拝謁した時、何が何だかさっぱり解りませんでした。当時、師匠から豊受様から貴方の元に鍾馗神が貴方の守護に行かれたと連絡を受けていましたので、その鍾馗神による伝(ツテ)だろうとぐらいしか思っていませんでした。
私はこの大政奉還の文章を見て、?、どうして創造神とされる国常立尊を国祖にしてあるのか?。霊界物語でも尊とは「御言」であり言葉であると他では示されています。それを国祖にする必要があるとすれば「日本語」の意味になります。
その国祖・国常立尊の意味は「日本語」と解釈し、磐古大神は「漢字」の意味が第一義であると理解したしだいです。日本語は「漢字」が無いと「感じ」が掴めないからです。その漢字を日本語に「変換」する意味が「返還」であると。
大本教出口王仁三郎聖師は漢字の研究に没頭され、出口なお開祖派の信徒からひら仮名が大切なのに漢字をと攻撃されて、その研究書を焼かれてしまわれて、開祖派の信徒達は何も解っていないと嘆かれたのですが、日本語のひら仮名は「漢字」から創られているわけです。大本教出口なお開祖派の信徒さんはひら仮名の元が解っていなかったわけですが、本質を考えないそうした人々は何時の世にも出ます。
私は人に内在する良心神を大本教神諭予告「九つ花」から見つけたしだいですが、それだけだと単に「ら」神論で終わってしまいます。その「ら」は如何なる漢字から創られたのかが解ると「良」神となるわけです。また、大本教神諭は「花」としていますので真ん中の「芯」は「心」となるわけです。そこに「良心」神が出て来ます。
その九つ花の仕組みに「五六億七千万」の意味があり、みろく(369)となるわけです。そしてお釈迦様の悟りが解るわけです。これらは大本教と言う宗教が起きなければ、何人をしても解読など出来ない仕組みと言えます。普通であれば何も気づかないからです。ですから、今日まで誰も解き明かしていなかったと言えます。
しかし、その大政奉還には言葉の解読の意味だけではなくて、実質的に地上神界において大政奉還がなされて、地上神界に古代の主宰神・国常立尊の元で新しい世が起きてこそが【維新】なのです。しかも死者の維新となるので「羅」王が解らなくてはなりません。羅王とは「閻魔大王」のことですが、これが鬼と云う牛虎で「ウシトラ」金神となります。そして「魂」の核たる「円真」につながるのです。
これら一連の仕組みが表から「退くの艮」とも掛け合わせてあるわけです。言葉は神と共に在ったが解っていないと、言葉の仕組みすら理解出来ないことになります。
されど、霊界物語に神界の「大政奉還」と示されていても、それが何時起きるのか?、何時霊界で起きたのかの内容すら存在していません。これだけでは時期が特定出来ません。
大政奉還とは【王政復古】を意味しており、人民による人民の議会制民主主義とは制度が違うのです。一王ではなくて、唯一神の元で行われる「神政」となるわけです。
その時、これまで世の上に居た者が「神政」に従事するのではなく、世の下に居た者の中で、これはと言う者が登用されて新しい「神政」に従事することで、今日までの「ヒラ」達が新しい世の中核と成るわけです。
大本教神諭では、それをあんな者がこんな者になったと書いているわけでして、大本教の出口王仁三郎聖師はそれを称して、「牛の糞が天下取る」ようなものだと予告されたわけです。意味することは普通に考えていれば不可能に近い出来事です。
個人として見た場合優秀でありながらも社会の下に居た者が上に行くので、一八十度ひっくり返ることから【イ(一)ワ(八)ト(十)】開けとも予告されて来たわけですが、「平」の字を分解しても「一八十」と読めるわけです。
一部では国常立尊は宇宙人だとか悪神だと盛んに宣伝なさっている方もあるようですが、私は大本教霊界物語に触れるまでは、国常立尊の名は記紀神話でその名を知る程度で、そもそも悪神説そのもを聞いたこともありませんでした。
国常立尊悪神説は大本教が世に広めた話であって、そこにあるのは35万年前に御引退の話です。国常立尊は悪神だと声高々に言われる方達は35万年以上も昔の出来事を詳細に知っておられる方なのでしょうか?。
アメリカにおいて眠れる偉大な予言者と言われるエドガー・ケーシーは、一万数千年前には地上には羽根を持った人間達が存在していたと述べています。その当時の霊が今日では天使の様に思われているようですが、それよりも遙か超古代に国常立尊が悪神とされたことにはある経緯が存在するのです。
国常立尊は悪神として追われたとあっても、俗に言う兇悪の神の意味ではないのです。国常立尊は創造神ともされる神ですが厳格な神であったので、何をしても自由式の甘い世界を望む神々によって疎んじられたわけです。その厳しさに地の神界において反乱が生じて、反乱軍も勝てば官軍。国常立尊の天使団は負ければ賊軍の習いによって、国常立尊派の諸神(天使)達も悪神として追われたわけです。光だとか闇の論理ではなかったわけです。
大本教が予告した「立替」説の中には、国常立尊が神界の表舞台から退かれた後、主君を失って地に墜ちて今はどうしているのかさえ解らない天使達の魂を元の神の世界に復帰させるもあるのです。
大本教霊界物語では、主の神は【三五万年前】に御引退となっておりまして、私達人類が知ることもない超古代の話をしているわけで、縄文時代とか弥生時代の話ではないわけです。考古学で言うと、そんな時代に文明など存在しないとなります。そうしたことから次元が違っているとも言われていますが、元々神代の話は次元が違う世界の話なので、いくら物質界を考古学で調べても解らないわけです。
ただ、私達はこの世の肉体の命を終えれば霊界にと帰るわけでして、その霊界を舞台にして起きたわけです。何故、それが現界時間にして35万年前と言えるのかと言いますと、九つ花の仕組みとこの地球が動いている時間との関係でそれは解るのです。
大本教の出口王仁三郎聖師は近代日本が産んだ最高の予言者であったことは、出口王仁三郎聖師の数々の予言の的中率からも解ります。しかし、その出口王仁三郎聖師は今は無く、そうした当たる予言が出来る霊能者はそれ以後出て来ていません。では、出口王仁三郎聖師の背後に在って、当時出口王仁三郎聖師にそれらを予言させた神達は今は存在していないのかとなります。
神が消えるなどはあり得ないでしょうが、その神に使われる肉体の者が居ないが正解かも解りません。
稲荷祝詞を見ますと、天地開けてこのかた、国常立尊と拝し祭れば、豊受の神の流れとなっています。稲荷の総本山は京都の「伏見」にあります。そして、大本教神諭には、薩張(さっぱり)で片付けるとあります。この「薩張」は明治維新の薩長連合の意味合いで、鳥羽伏見で王政復古の戦端を開きました。大本教神諭は明治25年以後のものですが、それに薩長連合が組み込んであることは、同様の型が起きる意味合いになります。
しかし、現代において薩長連合たる薩摩藩と長州藩が存在するわけではありません。だとすれば、薩摩藩が何を意味し、長州藩が何を意味するかです。薩摩の紋は〇十で、大本教霊界物語では「みろくの神の御紋章」ですが「地球記号」でもあるのです。そして長州藩の紋所は一文字に三つ星ですが、この三つ星は「将軍星」のオリオン星です。出口王仁三郎聖師の魂はオリオン星だと言われていますが、この薩長連合はもっと大きな意味合いを持っていると伺えるわけです。
大本教出口王仁三郎聖師は常に「型」を説かれています。その型を見つけると解り易いということなのです。問題はいつ「大政奉還」による「王政復古」が霊界に発布されたか?、されるかです。今、NHKの大河ドラマ「八重の桜」が放映されていますが、その中で小泉孝太郎さんが徳川慶喜を演じておられます。過去にも本木雅弘さんが演じた徳川慶喜がありますが、西暦1999年以前なので「型」見本にはなっていないと思われます。
つい、先日私の夢の中に衣冠束帯の宮中姿の小泉孝太郎さんが出て来て、徳川慶喜として朝廷に大政奉還をされる場面が出て来たのはいいのですが、私のこれまでの解釈には長州とオリオン星座とが結びついていませんでした。
明治時代に大本教という宗教が起きた時、その霊界物語の中に磐古大神(国常立尊が悪神とされて地上神界の表舞台から御引退された後、地上神界の主宰神の地位に就かれたとされる中国で創造神と言われている神)から、国祖・国常立尊様に神政の【大政奉還】という内容が出て来ます。
私は鍾馗神のご案内で数千の将軍を引き連れた「磐古大神」という神霊に拝謁した時、何が何だかさっぱり解りませんでした。当時、師匠から豊受様から貴方の元に鍾馗神が貴方の守護に行かれたと連絡を受けていましたので、その鍾馗神による伝(ツテ)だろうとぐらいしか思っていませんでした。
私はこの大政奉還の文章を見て、?、どうして創造神とされる国常立尊を国祖にしてあるのか?。霊界物語でも尊とは「御言」であり言葉であると他では示されています。それを国祖にする必要があるとすれば「日本語」の意味になります。
その国祖・国常立尊の意味は「日本語」と解釈し、磐古大神は「漢字」の意味が第一義であると理解したしだいです。日本語は「漢字」が無いと「感じ」が掴めないからです。その漢字を日本語に「変換」する意味が「返還」であると。
大本教出口王仁三郎聖師は漢字の研究に没頭され、出口なお開祖派の信徒からひら仮名が大切なのに漢字をと攻撃されて、その研究書を焼かれてしまわれて、開祖派の信徒達は何も解っていないと嘆かれたのですが、日本語のひら仮名は「漢字」から創られているわけです。大本教出口なお開祖派の信徒さんはひら仮名の元が解っていなかったわけですが、本質を考えないそうした人々は何時の世にも出ます。
私は人に内在する良心神を大本教神諭予告「九つ花」から見つけたしだいですが、それだけだと単に「ら」神論で終わってしまいます。その「ら」は如何なる漢字から創られたのかが解ると「良」神となるわけです。また、大本教神諭は「花」としていますので真ん中の「芯」は「心」となるわけです。そこに「良心」神が出て来ます。
その九つ花の仕組みに「五六億七千万」の意味があり、みろく(369)となるわけです。そしてお釈迦様の悟りが解るわけです。これらは大本教と言う宗教が起きなければ、何人をしても解読など出来ない仕組みと言えます。普通であれば何も気づかないからです。ですから、今日まで誰も解き明かしていなかったと言えます。
しかし、その大政奉還には言葉の解読の意味だけではなくて、実質的に地上神界において大政奉還がなされて、地上神界に古代の主宰神・国常立尊の元で新しい世が起きてこそが【維新】なのです。しかも死者の維新となるので「羅」王が解らなくてはなりません。羅王とは「閻魔大王」のことですが、これが鬼と云う牛虎で「ウシトラ」金神となります。そして「魂」の核たる「円真」につながるのです。
これら一連の仕組みが表から「退くの艮」とも掛け合わせてあるわけです。言葉は神と共に在ったが解っていないと、言葉の仕組みすら理解出来ないことになります。
されど、霊界物語に神界の「大政奉還」と示されていても、それが何時起きるのか?、何時霊界で起きたのかの内容すら存在していません。これだけでは時期が特定出来ません。
大政奉還とは【王政復古】を意味しており、人民による人民の議会制民主主義とは制度が違うのです。一王ではなくて、唯一神の元で行われる「神政」となるわけです。
その時、これまで世の上に居た者が「神政」に従事するのではなく、世の下に居た者の中で、これはと言う者が登用されて新しい「神政」に従事することで、今日までの「ヒラ」達が新しい世の中核と成るわけです。
大本教神諭では、それをあんな者がこんな者になったと書いているわけでして、大本教の出口王仁三郎聖師はそれを称して、「牛の糞が天下取る」ようなものだと予告されたわけです。意味することは普通に考えていれば不可能に近い出来事です。
個人として見た場合優秀でありながらも社会の下に居た者が上に行くので、一八十度ひっくり返ることから【イ(一)ワ(八)ト(十)】開けとも予告されて来たわけですが、「平」の字を分解しても「一八十」と読めるわけです。
一部では国常立尊は宇宙人だとか悪神だと盛んに宣伝なさっている方もあるようですが、私は大本教霊界物語に触れるまでは、国常立尊の名は記紀神話でその名を知る程度で、そもそも悪神説そのもを聞いたこともありませんでした。
国常立尊悪神説は大本教が世に広めた話であって、そこにあるのは35万年前に御引退の話です。国常立尊は悪神だと声高々に言われる方達は35万年以上も昔の出来事を詳細に知っておられる方なのでしょうか?。
アメリカにおいて眠れる偉大な予言者と言われるエドガー・ケーシーは、一万数千年前には地上には羽根を持った人間達が存在していたと述べています。その当時の霊が今日では天使の様に思われているようですが、それよりも遙か超古代に国常立尊が悪神とされたことにはある経緯が存在するのです。
国常立尊は悪神として追われたとあっても、俗に言う兇悪の神の意味ではないのです。国常立尊は創造神ともされる神ですが厳格な神であったので、何をしても自由式の甘い世界を望む神々によって疎んじられたわけです。その厳しさに地の神界において反乱が生じて、反乱軍も勝てば官軍。国常立尊の天使団は負ければ賊軍の習いによって、国常立尊派の諸神(天使)達も悪神として追われたわけです。光だとか闇の論理ではなかったわけです。
大本教が予告した「立替」説の中には、国常立尊が神界の表舞台から退かれた後、主君を失って地に墜ちて今はどうしているのかさえ解らない天使達の魂を元の神の世界に復帰させるもあるのです。
大本教霊界物語では、主の神は【三五万年前】に御引退となっておりまして、私達人類が知ることもない超古代の話をしているわけで、縄文時代とか弥生時代の話ではないわけです。考古学で言うと、そんな時代に文明など存在しないとなります。そうしたことから次元が違っているとも言われていますが、元々神代の話は次元が違う世界の話なので、いくら物質界を考古学で調べても解らないわけです。
ただ、私達はこの世の肉体の命を終えれば霊界にと帰るわけでして、その霊界を舞台にして起きたわけです。何故、それが現界時間にして35万年前と言えるのかと言いますと、九つ花の仕組みとこの地球が動いている時間との関係でそれは解るのです。
大本教の出口王仁三郎聖師は近代日本が産んだ最高の予言者であったことは、出口王仁三郎聖師の数々の予言の的中率からも解ります。しかし、その出口王仁三郎聖師は今は無く、そうした当たる予言が出来る霊能者はそれ以後出て来ていません。では、出口王仁三郎聖師の背後に在って、当時出口王仁三郎聖師にそれらを予言させた神達は今は存在していないのかとなります。
神が消えるなどはあり得ないでしょうが、その神に使われる肉体の者が居ないが正解かも解りません。
稲荷祝詞を見ますと、天地開けてこのかた、国常立尊と拝し祭れば、豊受の神の流れとなっています。稲荷の総本山は京都の「伏見」にあります。そして、大本教神諭には、薩張(さっぱり)で片付けるとあります。この「薩張」は明治維新の薩長連合の意味合いで、鳥羽伏見で王政復古の戦端を開きました。大本教神諭は明治25年以後のものですが、それに薩長連合が組み込んであることは、同様の型が起きる意味合いになります。
しかし、現代において薩長連合たる薩摩藩と長州藩が存在するわけではありません。だとすれば、薩摩藩が何を意味し、長州藩が何を意味するかです。薩摩の紋は〇十で、大本教霊界物語では「みろくの神の御紋章」ですが「地球記号」でもあるのです。そして長州藩の紋所は一文字に三つ星ですが、この三つ星は「将軍星」のオリオン星です。出口王仁三郎聖師の魂はオリオン星だと言われていますが、この薩長連合はもっと大きな意味合いを持っていると伺えるわけです。
大本教出口王仁三郎聖師は常に「型」を説かれています。その型を見つけると解り易いということなのです。問題はいつ「大政奉還」による「王政復古」が霊界に発布されたか?、されるかです。今、NHKの大河ドラマ「八重の桜」が放映されていますが、その中で小泉孝太郎さんが徳川慶喜を演じておられます。過去にも本木雅弘さんが演じた徳川慶喜がありますが、西暦1999年以前なので「型」見本にはなっていないと思われます。
つい、先日私の夢の中に衣冠束帯の宮中姿の小泉孝太郎さんが出て来て、徳川慶喜として朝廷に大政奉還をされる場面が出て来たのはいいのですが、私のこれまでの解釈には長州とオリオン星座とが結びついていませんでした。
魂の食い破り(神の子と呼ばれた子供)
0
- 2013.05.17 Friday
- -
- 22:26
- -
- trackbacks(0)
- -
- by 上野公園
俗に魂は不滅だと言う言い方をします。その為に聞いたことがない言葉として、「魂の喰い破り」があります。一般的には意味不明な言葉ですが、霊的世界に関して言われている言葉です。
私は昭和五十五年から神霊世界に修行の足を踏み入れました。最初にお世話になったのは伏見稲荷大社講務本庁の某支部です。師匠はその当時は某支部の支部長であり、その支部はその地方の藩主が建立された由緒ある稲荷神社の社務所を支部としていました。その稲荷神社はその市においては市の三大神社でもあり、師匠はその神社の神主もされていました。
あるお祭りの時、御自身は不動尊行者であり会社を経営されていた御婦人がその子供さんを連れてお祭りに参加されていました。そのお子さんは、その御婦人の周囲に集まる不動尊行者達からは、「神の子」だと言われておられました。そこでその御婦人も自分は「神の子」を生んだとかなり鼻高々でした。
どうして不動尊行者達がそのお子さんを「神の子」と言うのか不思議に思い、御自身の祖母さんが不動尊の御代をされていた方で、自分もまた不動尊行者に成る為の修行者で、その御婦人とは友人関係にある方に聞きましたところ、そのお子さんは粘土細工で素晴らしい蛇の像を造る。それはまるで生きているようで天才的だと言われます。また描く絵も龍蛇を見事に描くとのことでした。
私が最初に師匠とした方は伏見稲荷大社講務本庁に所属でしたが、それ以前は四国小豆島の某霊場の御本尊である不動尊の御代をされていたことから、優れた不動尊行者でもあったことから不動尊系の方もかなり来ておられたわけです。
お祭りでは稲荷釜が催されます。すると、何も異常が無ければゴーと釜鳴りしているわけです。その子供さんにすれば珍しいからなのでしょうが、その釜を覗いてしまうのです。すると、その釜はピタリと音鳴りがしなくなります。私からすれば顔を釜に突き出せば音鳴りはしないだろうの感覚だったのですが、その師匠がその子供さんが稲荷釜を覗くのを神様が嫌がって鳴るのを止められると不思議なことを言います。
しかも単に覗くのを嫌っているのではなくて、その子供さん自体が嫌いだと言われます。神様が子供を嫌う???です。だが、師匠に理由を聞いても押し黙って答えてくれませんでした。
私が2番目の師匠の元に居た時、面白い話があるとその背後の霊査が行われていました。霊界研究の為です。私がその子供さんの話をすると、2番目の師匠が即座に透視を始めて「これは、どういうことだ。既に魂が蛇霊に食い破られているではないか」と言います。
魂が蛇霊に食い破られているとはどういうことかと聞きますと、この子供は蛇霊が魂を食い破って人としてこの世に産まれて来ている。人の姿をした蛇霊だ。この子供はこのままでは蛇霊の化身としてその霊力を振るう。人々から神として崇められる。だがそれは蛇霊の神だ!。それは止めなければならないで、その霊力を封印すると言われます。それならば、この子は普通の人として生きられると。
それから二十数年後、数年前になりますが、そのお母さんに偶然に出会う機会がありましたので、お子さんはどうなさっていますかと尋ねしたところ、普通の社会人として生きていますと言われます。多くの不動尊行者から「神の子」と期待されていたことを尋ねましたところ、霊的なことも無くなり神仏に対して何の興味も示しませんでしたとガッカリされていました。私はそれを聞いて、普通の人で暮らせるのが一番幸せなのですよと言っておきました。
最初の師匠が押し黙って答えようとされなかったのは、その子供さんが魂的に蛇霊であったことからでしょう。大本教霊界物語を拝読していますと、神玉を預かる神司の奥さんの胎内にそうした龍蛇の精が降下してその子供として生まれ、親に愛されて成長しながらも、その本質に目ざめた時にはその親が守っていた宝玉を奪い龍蛇の姿となって遁走するがあります。
神宝を奪われた神司にすれば、神宝を奪われたことよりも愛する我が子が本当は龍蛇霊であって、二度と自分の元に帰って来てくれない悲嘆にくれたでしょう。
私が2番目の師匠とした方は、自ら多くの霊能者を霊力で抹殺したと豪語するほどの方で、私もその師匠に逆らったと死に神を送りつけられました。私もそれまでは式神とか死に神など信じてもいませんでした。
言うなれば悪の方です。しかし、この方から得た学びは大きかったのです。単なる悪徳行者ではなく、何の金銭の見返りも要求せずに医師が見放した人達も多く助けておられました。この件に関しましても本人達には何も告げずに陰で処理してしまわれたわけです。
神仏の世界とは、私が見る限りでは必ずしも正義が支配しているわけではなさそうです。そこには力の強い者が支配するが見られます。
魂の喰い破りとは非常に希な話なので、そうしたことすら知ることもないかとは思いますが、霊界は決して宗教が説く様な綺麗事の世界ではないということなのです。
にほんブログ村
この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。
私は昭和五十五年から神霊世界に修行の足を踏み入れました。最初にお世話になったのは伏見稲荷大社講務本庁の某支部です。師匠はその当時は某支部の支部長であり、その支部はその地方の藩主が建立された由緒ある稲荷神社の社務所を支部としていました。その稲荷神社はその市においては市の三大神社でもあり、師匠はその神社の神主もされていました。
あるお祭りの時、御自身は不動尊行者であり会社を経営されていた御婦人がその子供さんを連れてお祭りに参加されていました。そのお子さんは、その御婦人の周囲に集まる不動尊行者達からは、「神の子」だと言われておられました。そこでその御婦人も自分は「神の子」を生んだとかなり鼻高々でした。
どうして不動尊行者達がそのお子さんを「神の子」と言うのか不思議に思い、御自身の祖母さんが不動尊の御代をされていた方で、自分もまた不動尊行者に成る為の修行者で、その御婦人とは友人関係にある方に聞きましたところ、そのお子さんは粘土細工で素晴らしい蛇の像を造る。それはまるで生きているようで天才的だと言われます。また描く絵も龍蛇を見事に描くとのことでした。
私が最初に師匠とした方は伏見稲荷大社講務本庁に所属でしたが、それ以前は四国小豆島の某霊場の御本尊である不動尊の御代をされていたことから、優れた不動尊行者でもあったことから不動尊系の方もかなり来ておられたわけです。
お祭りでは稲荷釜が催されます。すると、何も異常が無ければゴーと釜鳴りしているわけです。その子供さんにすれば珍しいからなのでしょうが、その釜を覗いてしまうのです。すると、その釜はピタリと音鳴りがしなくなります。私からすれば顔を釜に突き出せば音鳴りはしないだろうの感覚だったのですが、その師匠がその子供さんが稲荷釜を覗くのを神様が嫌がって鳴るのを止められると不思議なことを言います。
しかも単に覗くのを嫌っているのではなくて、その子供さん自体が嫌いだと言われます。神様が子供を嫌う???です。だが、師匠に理由を聞いても押し黙って答えてくれませんでした。
私が2番目の師匠の元に居た時、面白い話があるとその背後の霊査が行われていました。霊界研究の為です。私がその子供さんの話をすると、2番目の師匠が即座に透視を始めて「これは、どういうことだ。既に魂が蛇霊に食い破られているではないか」と言います。
魂が蛇霊に食い破られているとはどういうことかと聞きますと、この子供は蛇霊が魂を食い破って人としてこの世に産まれて来ている。人の姿をした蛇霊だ。この子供はこのままでは蛇霊の化身としてその霊力を振るう。人々から神として崇められる。だがそれは蛇霊の神だ!。それは止めなければならないで、その霊力を封印すると言われます。それならば、この子は普通の人として生きられると。
それから二十数年後、数年前になりますが、そのお母さんに偶然に出会う機会がありましたので、お子さんはどうなさっていますかと尋ねしたところ、普通の社会人として生きていますと言われます。多くの不動尊行者から「神の子」と期待されていたことを尋ねましたところ、霊的なことも無くなり神仏に対して何の興味も示しませんでしたとガッカリされていました。私はそれを聞いて、普通の人で暮らせるのが一番幸せなのですよと言っておきました。
最初の師匠が押し黙って答えようとされなかったのは、その子供さんが魂的に蛇霊であったことからでしょう。大本教霊界物語を拝読していますと、神玉を預かる神司の奥さんの胎内にそうした龍蛇の精が降下してその子供として生まれ、親に愛されて成長しながらも、その本質に目ざめた時にはその親が守っていた宝玉を奪い龍蛇の姿となって遁走するがあります。
神宝を奪われた神司にすれば、神宝を奪われたことよりも愛する我が子が本当は龍蛇霊であって、二度と自分の元に帰って来てくれない悲嘆にくれたでしょう。
私が2番目の師匠とした方は、自ら多くの霊能者を霊力で抹殺したと豪語するほどの方で、私もその師匠に逆らったと死に神を送りつけられました。私もそれまでは式神とか死に神など信じてもいませんでした。
言うなれば悪の方です。しかし、この方から得た学びは大きかったのです。単なる悪徳行者ではなく、何の金銭の見返りも要求せずに医師が見放した人達も多く助けておられました。この件に関しましても本人達には何も告げずに陰で処理してしまわれたわけです。
神仏の世界とは、私が見る限りでは必ずしも正義が支配しているわけではなさそうです。そこには力の強い者が支配するが見られます。
魂の喰い破りとは非常に希な話なので、そうしたことすら知ることもないかとは思いますが、霊界は決して宗教が説く様な綺麗事の世界ではないということなのです。
にほんブログ村
この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。
私個人の幽体離脱体験記(解説図入り)
0
- 2013.05.10 Friday
- -
- 17:34
- -
- trackbacks(0)
- -
- by 上野公園
神仏の存在を信じる方は数多く有ります。宗教と呼ばれるものが成り立つのは、神仏の存在を信じる人達が居るからです。だが、その多くは今では形骸化しました。
宗教と呼ばれるものが衰退した原因は、一つには科学の発展が有り、目に見えたもの、科学的理論において検証が出来ないものは迷信と片付けられ始めたことが要因に有るかも知れません。
テレビでおなじみの大槻義彦教授は神の存在は信じるが、霊など呼ばれるものは無いとメチャメチャ論を展開されていました。神は霊なので、霊を否定すれば神も否定することになります。どうしてそんな理屈すら解らないのかと、だだだ呆れるばかりです。しかし、それが今日の現状なのです。
例えそれが諸神であったとしても、そうした諸神を通じて奇跡的な神の力に出会い、諸神諸仏諸眷属であろうともその存在に触れるということは、確信として神仏の存在並びに死後の世界が在るという認識を得られます。無論、その世界にも善悪はあり、死後の世界は必ずしもパラダイスではないとしても、この肉体はどう意味なのかと少しでも真理の道に進む道標とはなるのです。
その意味では、霊的体験を積むということは重要な出来事ではあるのです。
よく三位一体(さんみいったい)が言われます。キリスト教の場合は父と子と聖霊の三つが一体で有るという説です。一方、仏教では「三宝」に伏すと説かれます。この三宝とは、「仏(ほとけ)」「法」「僧」です。続けて、仏法僧(ぶっぽうそう)と言います。
どうして、三つで表現されるのでしょうか?。
個々の私達をとって見た場合、肉体と魂だけでなく、霊界における肉体という意味で幽体などと呼ばれる物を身にまとっています。すなわち、魂・霊体(幽体)・肉体の「三位一体」で私達は物質界で生きて暮らしているのです。
この世で肉体を無くした私達の霊幽体は、この世の肉体と同じ姿をしてますが、更なる高次元界に進みますと、その霊幽体も脱ぎ捨ててしまいますので別の高貴な姿の存在にとなって行きます。
しかし、いくら科学者や医学者が魂とか霊体(幽体)と呼ばれる存在を科学的・医学的に調査しても見つからないわけです。だから、存在しないというバカげた論理が蔓延して来たと言えます。科学や医学では神は解らないのです。
霊媒体質者と呼ばれる人達は、俗に「幽体離脱」と呼ばれるものを体験している方が多いかと思います。そして、幽体離脱をした時、自分と言う存在は肉体では無いと実感出来るわけです。これは非常に重要なことなのです。あまりにも肉体の価値観に囚われてしまいますと、霊界への道を誤るからです。
しかし、科学者や医学者はそうした霊界論は単に脳の意識が起こした幻影の架空論で、実際では無いという理論を構築するわけです。確かに、ヘミシンク等に見られる霊的体験は脳内妄想に近く、実際的なものでは無いと言われています。私も師匠筋からヘミシンクがモンロー研究所と呼ばれていた当時から、あれは自分の脳を破壊してしまう危険があると指摘されて来ました。
ですから、霊的なものが見えるとか。声が聞こえるは、本当に霊的世界からの干渉を受けているのか。あるいは脳に何等かの異常があって見る幻影なのか。その辺を見極める必要はあります。何でもスピで行くと非常に危険なのです。
幽体離脱では、自分の意識が眠っている自分を上から見下ろしているとか、肉体から抜ける時にトンネルの様の中を高速で抜けて行くようなゴウゴウという風圧を耳に感じるという報告がなされています。
では、これは私の体験ですが、私が体験した幽体離脱の現象を語ってみたいと思います。あくまで私個人体験記であり、誰もがその通りかどうかは解りません。どこまでも私の体験記です。
幽体離脱の最初は金縛りが来ると言われていますが、私が体験した幽体離脱の最初も自分の耳元にゴウゴウという強い風圧を感じました。その時の自分の状態は金縛り状態でした。
すると、それとは別に布団に横たわったいる自分を上から見ている自分が存在して来たのです。その横たわっている自分は昆虫が頭から脱皮するように、肉体から抜け出そうとしているのです。それを上から私の意識が見ているのです。
そして肉体に戻った私の意識は、耳元でゴウゴウと鳴る強い風圧は自分が上に向かって上昇しているのではなくて、自分の肉体が幽体と一緒に起き上がるのを押さえつけている為のもののようでした。つまり、肉体と幽体が分離しょうとしている時の音と思われます。
たぶん、それを上から見ていなければ、霊界に向かってトンネルを高速で飛んでいると言われる方と同じ判断をしたかも知れません。
やがて上半身が抜け出した私は下半身も抜け出して、横たわった状態で空中に浮かんでいます。それを上から見ていた私は、いけない。あの幽体に戻らなければと意識した途端、私はその幽体の存在となっていました。
すると、もう天井が目の前に見えています。ぶつかる。ワーと思った途端、そのま天井を抜けて、90度回転で頭を上にして屋根の上でフワフワと浮いていました。そうか。幽霊とか呼ばれる存在は物質界を通り抜けると言われていますが、霊幽体は三次元物質界は関係ないのだと学んだしだいです。
ここまでならば、単に夢で片付けることも出来ます。しかし、私の体験はここからが少し違うのです。それが夢では無いことを私にとっては証明するものでした。
屋根の上で浮いている私の両脇を二体の男性霊が支える形で上昇始めたのです。その時の二体の霊は、私が修業に入った当時、三体のお坊さん姿の方が常に現れていました。
霊能者の調べやその後の経緯で、その三体の真ん中に居る霊は私の家系の五代前先祖霊さんで僧ではなく法華経を修行された方で、その両脇の二体の弟子のような感じの方は日蓮さんの直弟子であった鎌倉時代の方でした。その弟子たる二体です。
私を支えて上昇した日蓮さんのお直弟子の二体の霊は、私を雲の上に載せたのです。そして雲を動かす訓練をしなさいです。雲の上に載った私は、雲に乗った観音さんとかキン斗雲に乗る孫悟空が語られて来ましたが、その雲をどうやって操縦したらいいのかがさっぱり解りません。
それでも悪戦苦闘しながら雲を動かして飛んで行く。その面白さに夢中でした。すると、もういいだろう。元の世界に帰りなさいと声が聞こえた途端、私はまっ逆さに地上に落とされたのです。私は地上に激突すると真っ青になったところ、自分の家の屋根が見えて来たところで急ブレキーがかかり、今度は体が寝ている時の様に横になると、ゆっくりゆっくり降下を初めて屋根を通過して肉体に収まったのです。
ですから、私の中ではこれは単なる妄想の類ではなく、実際に霊的体験をしたのであろうと思っています。ただ、どうして私を雲に乗せる訓練をしたのかははっきりしません。
私はこの体験により、肉体の私と霊幽体の私と意識体としての私があり、死後の世界とは肉体を脱いで霊幽体の自分と意識体である自分とが霊界に渡るです。霊と魂です。人はこの三位一体なのです。肉体とは一時の借宿のようなものであることを実地で学んだと言えます。
神が三次元物質界を終わらせて高次元世界に切り替えようとされているという論があると、まるでその存在は悪魔のようなものだと騒いでいるスピの人達が居ます。自分の本質はどこにあるのだ!と言いたいところです。それは何も見極めようとも解ろうともしない愚かな者達だと言えるでしょう。霊の世界を見ながら、三次元物質界の体の理論に縛られていることになります。
私達は元々が宇宙を舞台にした霊人なのです。人はこの世を去る時、その意識は消えて行きます。だが、私達は消滅するのではないのです。その意識は霊界に渡り、元々居た霊的世界に戻るのか、さらなる高次元霊界にと向かうのか、あるいは堕ちてしまうのかは様々であっても、【自分は生きていると実感する意識】は霊界に戻って生き続けるのです。
自分が出て来た霊的世界が素晴らしい世界であったとしたならば、どうしてその世界がどれほど愛や和に囲まれていたのか、争いが無い世界であった。どうしてその世界を目指そうと語りかしようとしないのかです。
なお、こうした幽体離脱の様は何度も何度も起きたとか見たという報告がなさそうです。私も以後は意識だけが神界に飛んだり、2番目の師匠から何時何分頃に私の霊幽体が来たが、その時に肉体のお前はどうしていたと聞かれて、その時は車の運転中で睡魔に襲われて安全な場所で車を止めて、車の中で寝ていました等がありました。
魂はこの世に降りる時は魂だけが降下しており、その霊幽体は肉体と一緒に創られて行く為に一種の不可分となっています。為にこの世を去った時の姿でしばらく霊界で留まるのは当たり前の話なのです。その肉体から霊幽体が抜けると言うことは一種の脱皮であり、ほとんどの方はそれは肉体の死の後で起きる出来事である為に自己の霊幽体が肉体から抜けるを自覚なされていないわけです。
通常、御遺体は死後24時間は置くようにとされていますが、死亡判定された人が息を吹き返すということだけでなく、肉体から霊幽体が抜ける時間も宗教では加味しているわけです。未だ肉体の中に霊幽体が閉じこもっている状態であれば、その状態で火葬されると霊幽体に焼かれるという意識ショックが起きてしまいます。自覚が早い方だと、早くに肉体から抜けて自分の葬儀を見ているとされるわけです。
葬儀は何でもかんでも早くやれば良いと言うわけではないのです。
にほんブログ村
この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。
宗教と呼ばれるものが衰退した原因は、一つには科学の発展が有り、目に見えたもの、科学的理論において検証が出来ないものは迷信と片付けられ始めたことが要因に有るかも知れません。
テレビでおなじみの大槻義彦教授は神の存在は信じるが、霊など呼ばれるものは無いとメチャメチャ論を展開されていました。神は霊なので、霊を否定すれば神も否定することになります。どうしてそんな理屈すら解らないのかと、だだだ呆れるばかりです。しかし、それが今日の現状なのです。
例えそれが諸神であったとしても、そうした諸神を通じて奇跡的な神の力に出会い、諸神諸仏諸眷属であろうともその存在に触れるということは、確信として神仏の存在並びに死後の世界が在るという認識を得られます。無論、その世界にも善悪はあり、死後の世界は必ずしもパラダイスではないとしても、この肉体はどう意味なのかと少しでも真理の道に進む道標とはなるのです。
その意味では、霊的体験を積むということは重要な出来事ではあるのです。
よく三位一体(さんみいったい)が言われます。キリスト教の場合は父と子と聖霊の三つが一体で有るという説です。一方、仏教では「三宝」に伏すと説かれます。この三宝とは、「仏(ほとけ)」「法」「僧」です。続けて、仏法僧(ぶっぽうそう)と言います。
どうして、三つで表現されるのでしょうか?。
個々の私達をとって見た場合、肉体と魂だけでなく、霊界における肉体という意味で幽体などと呼ばれる物を身にまとっています。すなわち、魂・霊体(幽体)・肉体の「三位一体」で私達は物質界で生きて暮らしているのです。
この世で肉体を無くした私達の霊幽体は、この世の肉体と同じ姿をしてますが、更なる高次元界に進みますと、その霊幽体も脱ぎ捨ててしまいますので別の高貴な姿の存在にとなって行きます。
しかし、いくら科学者や医学者が魂とか霊体(幽体)と呼ばれる存在を科学的・医学的に調査しても見つからないわけです。だから、存在しないというバカげた論理が蔓延して来たと言えます。科学や医学では神は解らないのです。
霊媒体質者と呼ばれる人達は、俗に「幽体離脱」と呼ばれるものを体験している方が多いかと思います。そして、幽体離脱をした時、自分と言う存在は肉体では無いと実感出来るわけです。これは非常に重要なことなのです。あまりにも肉体の価値観に囚われてしまいますと、霊界への道を誤るからです。
しかし、科学者や医学者はそうした霊界論は単に脳の意識が起こした幻影の架空論で、実際では無いという理論を構築するわけです。確かに、ヘミシンク等に見られる霊的体験は脳内妄想に近く、実際的なものでは無いと言われています。私も師匠筋からヘミシンクがモンロー研究所と呼ばれていた当時から、あれは自分の脳を破壊してしまう危険があると指摘されて来ました。
ですから、霊的なものが見えるとか。声が聞こえるは、本当に霊的世界からの干渉を受けているのか。あるいは脳に何等かの異常があって見る幻影なのか。その辺を見極める必要はあります。何でもスピで行くと非常に危険なのです。
幽体離脱では、自分の意識が眠っている自分を上から見下ろしているとか、肉体から抜ける時にトンネルの様の中を高速で抜けて行くようなゴウゴウという風圧を耳に感じるという報告がなされています。
では、これは私の体験ですが、私が体験した幽体離脱の現象を語ってみたいと思います。あくまで私個人体験記であり、誰もがその通りかどうかは解りません。どこまでも私の体験記です。
幽体離脱の最初は金縛りが来ると言われていますが、私が体験した幽体離脱の最初も自分の耳元にゴウゴウという強い風圧を感じました。その時の自分の状態は金縛り状態でした。
すると、それとは別に布団に横たわったいる自分を上から見ている自分が存在して来たのです。その横たわっている自分は昆虫が頭から脱皮するように、肉体から抜け出そうとしているのです。それを上から私の意識が見ているのです。
そして肉体に戻った私の意識は、耳元でゴウゴウと鳴る強い風圧は自分が上に向かって上昇しているのではなくて、自分の肉体が幽体と一緒に起き上がるのを押さえつけている為のもののようでした。つまり、肉体と幽体が分離しょうとしている時の音と思われます。
たぶん、それを上から見ていなければ、霊界に向かってトンネルを高速で飛んでいると言われる方と同じ判断をしたかも知れません。
やがて上半身が抜け出した私は下半身も抜け出して、横たわった状態で空中に浮かんでいます。それを上から見ていた私は、いけない。あの幽体に戻らなければと意識した途端、私はその幽体の存在となっていました。
すると、もう天井が目の前に見えています。ぶつかる。ワーと思った途端、そのま天井を抜けて、90度回転で頭を上にして屋根の上でフワフワと浮いていました。そうか。幽霊とか呼ばれる存在は物質界を通り抜けると言われていますが、霊幽体は三次元物質界は関係ないのだと学んだしだいです。
ここまでならば、単に夢で片付けることも出来ます。しかし、私の体験はここからが少し違うのです。それが夢では無いことを私にとっては証明するものでした。
屋根の上で浮いている私の両脇を二体の男性霊が支える形で上昇始めたのです。その時の二体の霊は、私が修業に入った当時、三体のお坊さん姿の方が常に現れていました。
霊能者の調べやその後の経緯で、その三体の真ん中に居る霊は私の家系の五代前先祖霊さんで僧ではなく法華経を修行された方で、その両脇の二体の弟子のような感じの方は日蓮さんの直弟子であった鎌倉時代の方でした。その弟子たる二体です。
私を支えて上昇した日蓮さんのお直弟子の二体の霊は、私を雲の上に載せたのです。そして雲を動かす訓練をしなさいです。雲の上に載った私は、雲に乗った観音さんとかキン斗雲に乗る孫悟空が語られて来ましたが、その雲をどうやって操縦したらいいのかがさっぱり解りません。
それでも悪戦苦闘しながら雲を動かして飛んで行く。その面白さに夢中でした。すると、もういいだろう。元の世界に帰りなさいと声が聞こえた途端、私はまっ逆さに地上に落とされたのです。私は地上に激突すると真っ青になったところ、自分の家の屋根が見えて来たところで急ブレキーがかかり、今度は体が寝ている時の様に横になると、ゆっくりゆっくり降下を初めて屋根を通過して肉体に収まったのです。
ですから、私の中ではこれは単なる妄想の類ではなく、実際に霊的体験をしたのであろうと思っています。ただ、どうして私を雲に乗せる訓練をしたのかははっきりしません。
私はこの体験により、肉体の私と霊幽体の私と意識体としての私があり、死後の世界とは肉体を脱いで霊幽体の自分と意識体である自分とが霊界に渡るです。霊と魂です。人はこの三位一体なのです。肉体とは一時の借宿のようなものであることを実地で学んだと言えます。
神が三次元物質界を終わらせて高次元世界に切り替えようとされているという論があると、まるでその存在は悪魔のようなものだと騒いでいるスピの人達が居ます。自分の本質はどこにあるのだ!と言いたいところです。それは何も見極めようとも解ろうともしない愚かな者達だと言えるでしょう。霊の世界を見ながら、三次元物質界の体の理論に縛られていることになります。
私達は元々が宇宙を舞台にした霊人なのです。人はこの世を去る時、その意識は消えて行きます。だが、私達は消滅するのではないのです。その意識は霊界に渡り、元々居た霊的世界に戻るのか、さらなる高次元霊界にと向かうのか、あるいは堕ちてしまうのかは様々であっても、【自分は生きていると実感する意識】は霊界に戻って生き続けるのです。
自分が出て来た霊的世界が素晴らしい世界であったとしたならば、どうしてその世界がどれほど愛や和に囲まれていたのか、争いが無い世界であった。どうしてその世界を目指そうと語りかしようとしないのかです。
なお、こうした幽体離脱の様は何度も何度も起きたとか見たという報告がなさそうです。私も以後は意識だけが神界に飛んだり、2番目の師匠から何時何分頃に私の霊幽体が来たが、その時に肉体のお前はどうしていたと聞かれて、その時は車の運転中で睡魔に襲われて安全な場所で車を止めて、車の中で寝ていました等がありました。
魂はこの世に降りる時は魂だけが降下しており、その霊幽体は肉体と一緒に創られて行く為に一種の不可分となっています。為にこの世を去った時の姿でしばらく霊界で留まるのは当たり前の話なのです。その肉体から霊幽体が抜けると言うことは一種の脱皮であり、ほとんどの方はそれは肉体の死の後で起きる出来事である為に自己の霊幽体が肉体から抜けるを自覚なされていないわけです。
通常、御遺体は死後24時間は置くようにとされていますが、死亡判定された人が息を吹き返すということだけでなく、肉体から霊幽体が抜ける時間も宗教では加味しているわけです。未だ肉体の中に霊幽体が閉じこもっている状態であれば、その状態で火葬されると霊幽体に焼かれるという意識ショックが起きてしまいます。自覚が早い方だと、早くに肉体から抜けて自分の葬儀を見ているとされるわけです。
葬儀は何でもかんでも早くやれば良いと言うわけではないのです。
にほんブログ村
この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。
カルマの分割払い(三時)と肉体と魂の御先祖霊
0
- 2013.05.04 Saturday
- -
- 00:02
- -
- trackbacks(0)
- -
- by 上野公園
今回、私は曹洞宗の門徒として曹洞宗の御経に触れていまして、日本神道では解らなかった一面に触れました。その一つに【三時】がありました。
その【三時】で調べると解りませんでした。これは「三時」ではなくて、【三時業】のことでした。
三時業とは、
・順現業(じゅんげんごう)−現世において受ける業(カルマ)。曹洞宗では順現報受(じゅんげんほうじゅ)。
・順生業(じゅんしょうごう)−次の生で受ける業。曹洞宗では順次生受(じゅんじしょうじゅ)。
・順後業(じゅんごごう)−三回目以降の生において受ける業。曹洞宗では順後次受(じゅんごじじゅ)。
すなわち、私達が過去世で犯した罪による業(カルマ)は、今生において支払う分。次の世において支払う分。そして、三回目以降に支払う分があるということなのです。つまり一時で全部は返せないので、三回の生を持って支払うローンのような話なのです。
この三回は定まっているので「定業」と呼び、他に報いを受ける時期が定まっていないものを「順不定業」と言っているわけです。
これを見ると、明らかに仏教は「輪廻転生」を説いているにも関わらず、仏教は輪廻転生を説いていないと主張する方が多かった事実に対して、完全に仏教が形骸化しているとしか考えられません。
曹洞宗の「修証義」においては、「仏祖の道を修習するには、その最初よりこの三時の業報の理をならいあきらむなり」とあります。まず、仏の教えを知るには、最初にこの三時業(カルマの支払い)のことをよく知っておきなさいです。
次ぎに「修正儀」は説きます。解り易く意訳しますと「しかあらざれば多く誤りて邪見に堕ちるなり。ただ邪見に堕ちるのみに非ず悪道に堕ちて、長時の苦を受けます」。このことを知っていないと、誤った見知にはまってしまいますよと言うことなのです。
しかし、私達日本人はほとんど仏教徒ですが、こうした話は聞いていなかったがほとんどでしょう。私も今回知ったほどなのです。つまり、僧侶達も檀家信徒に面と向かって三時を説いていないのです。仏教では、今は末法期でお釈迦様の説かれた教えも形ばかりで形骸化し、正法が知られていないということも「三時業」を考えれば、そうしたことが言えます。
一部に、自分は仏教で悟りを得た聖者のような顔をして説かれる方がありますが、変ですね。こうした三時の話を聞いたことがありません。でも、その人を聖者の様に拝する人は後を絶ちません。
スピの世界では、「あなたの前世」はという商売が流行っていますが、実際問題としては嘘八百並べて言っても解らないが本当です。仏教の「三時業」の教えを見れば、貴方の前世のカルマを取りましたと言われても、今世分を取ってもらっても来世分はどうするの?。次の世の分は?。となります。スピそのものがこの「三時業」の教えなど知らない教えなのです。
だが、この【業による因果】とは、何も自分が過去世において犯した罪だけが「応報(目には目・歯には歯)」として現れるのではないのです。
自分が生まれた家系が背負っている【業による因果】が存在してきます。そこに因果解消の【菩薩道】も存在してきます。これが意外と知られておりません。為に誤った因果応報を言われる方がありまして、時にはそれが世間に悶着を起こすことがあります。
例えば、自分が被差別部落に生まれた時、お前は前世で人を差別したからだと言う意見があります。必ずしもそうではないのです。そうした差別社会を無くそうとして、そうした家系に降りて来られる魂もあるのです。自分が身をもって差別される苦しみを知らないと、差別と戦えないからです。
被差別部落とはいわれの無い話です。古代において戦いに負けた者達が勝てば官軍・負ければ賊軍であまり人が住まない川原とか山奥の僻地に追いやられた出来事で有り、個々の犯罪とは何の関係も無いのです。魂的に見ると、そうした歴史的なことも学ばないで差別する方の魂とは劣っているのです。何事も学べば自分が誤っていたと解る話です。
それには、まず自分が置かれた立ち位置を知るのではなくて、認識する必要が出て来ます。誰でも解る当たり前のことではあるのですが、残念ながらスピ系ではまったく理解していない方を多々見受けられます。
誰が見ても当たり前の図です。私達は突然に肉体を持ってこの世に現れるわけではないのです。自分がこの世に生存するのには父母が存在し、その父母にも父母たる祖父母が存在しています。その祖父母にも父母があって曾祖父母が居ます。その曾祖父母にも父母である高祖父母が存在します。
これは自分を初代とした場合の話で、民法で言うところの親族の親等計算ではありません。この先祖の言い方を間違われる方があります。自分の子供は二代目とか呼ばれるはずです。孫は三代目ですね。すると、自分の父母も逆に見ると二代目なのです。祖父母は三代目なのです。
私達は御先祖様と言った時、どうしても直系の御先祖様ばかりに目が行きますが、自分の肉体に流れている血脈とか肉体の遺伝子はこうした御先祖さんの流れを受けているのです。
そうなりますと、御先祖様は無限に広がるのですが、だいたいの論として六代前位の御先祖霊は輪廻転生の中で生まれ変わっておられる可能性がありますので、それ以上はあまり考えなくてもいいわけです。
仮に27代前で遡りますと、それまでの累計御先祖霊は現在の日本の人口並の一億三千万体からになってしまいます。一代37年と計算しても僅か千年ほどです。
無論、御先祖は生まれ変わっていると決めつけも出来ません。何故ならば輪廻転生の中に入らず、何百年とか何千年とか何万年と霊界で存在しておられる方もあるにはありますので、全ての霊が輪廻転生の中に入っているのではないのです。
ある夜、夢を見ていてその光景とは五万年前の私の身に起きた出来事です。翌日二番目の師匠の元で霊媒通しをしたところ、その夢の中で出て来ていた霊はやはり五万年前の話をします。それを見ていた当時の師匠が何と猿顔の男だなと言います。私の夢の中ではその男はフードを被っていたのですが、それでも見えた猿顔に私も最初は猿かとギョッとしていたほどです。その霊は未だ当時から生まれ変わってはいないと言います。何故に私の前に出て来たかと言いますと、五万年前のある戦闘で貴方を助けたことを忘れないで欲しいでした。しかし、五万年前と言われても弱るわけです。
今の人類だと知らない古代であり、聖書に残る水の審判と呼ばれるものがあったとすれば、それ以前の話でしょう。
私の父方の叔父が某神宮に参拝したところ、勅使門が開けられて、そこから出て来た某神宮の方が叔父を呼び意味が解らずに着いて行ったところ、天皇家関係者以外は昇段禁止の場所から神殿に上げられて宮司が付き添っての参拝になったと言います。
あまりの不思議に叔父が宮司さんに理由を尋ねたところ、その宮司さんいわく。御神霊から何月何日何時頃に斯く斯く然々でこうした者が参拝して来るので、勅使門から神殿に上げるように御神霊から承っておりますのでと言われて面食らったと言います。私も叔父も血脈は一緒のはずなのですが、何故か私にはそうした厚遇の体験はありません。
叔父はその不思議に霊能者の方に家系の流れを調べていただいたところ、ある天皇に当たったと言います。私はその話を叔父から聞いて、私の家系は清和源氏の流れの丹波源氏の郷士ですから天皇系に辿り着いても別に不思議ではないし、日本国民ならば皆御先祖の御先祖と辿っていけば御先祖のどこかに天皇家に縁があっても何等不思議な話ではないでしょうと一蹴しておりました。
この話をある霊能者の方に話しましたところ、某神宮でしょう。あの神宮の宮司さんは御神霊と会話が出来るので、私も参拝した時には御祭神の大国主命様との関係から勅使門から神殿に上げて貰いましたと言われていました。
つまり、私達は御先祖を言う場合家系の直系だけを見ているので、とんでもない数の御先祖さんがあるということに気づいていないわけです。今、自分がここにあるのは御先祖様の御陰です感謝される方があります。だが、それは直系だけの御先祖を見ているのであって、母方を見ていないわけです。自分が今ここにあるということは、とんでもない数の御先祖様があっての話なので、もっと大きな視野で見なければならないのです。そうなれば社会に対する感謝も湧くわけです。
一般的に各自の魂の「カルマ」は個人の過去世に犯した悪業によるものが多いのですが、個々の個人の魂によるカルマではなくて、自分が生まれた家系に溜まっているカルマの消滅の為に出る魂も存在してきます。
そうした時、何もそんなカルマが溜まった家系に生まれ出てカルマを解消する為に苦労する必要はないだろうという意見になろうかとは思います。
霊界でも高い世界に進む修業は出来ますが、その歩みは遅いのです。それは霊界における各自の世界は同じ想念の者だけが集まって社会を創っている為に、どうしても横並び、ドングリの背比べで抜きん出ることが出来ません。しかし、地獄の様な状態に入ってしまう家系のカルマの中で、その家庭のカルマの解消を勤め上げた魂は霊界に入れば「菩薩」の様な立場に変わってしまうのです。
自分は何でこんな地獄の様な立場にあるのだと悲観される方がありますが、それは自分が選んだ「菩薩道」かも知れませんし、自分が覚えていない前世のカルマを解消すれば前途洋々なのです。一時の「苦」に負けては行けないのです。
私達が持っている【意識】は肉体の命が終われば、それで終わりではありません。それからが永遠とか不滅とかで言われる魂で霊界にと渡ります。
では、先程の家系図を逆さにしてみましょう。今度は肉体側から見ずに、霊界側から見るわけです。
この図は単に先出しの図を回転させただけで、魂の分裂に関しましては「一霊四魂」の法則に基づいてきますので、図としては正しくはありません。便宜上です。
魂の分裂図に関しましては、このブログの【自分がいと小さき者と知る為に、魂の分裂図】の中に、大本教霊界物語で示された図が入れてありますので、それらを参考にしてください。
この宇宙の初発に「意識」が存在しました。その意識が【想像神】であり、無から有が生じて「1・2・3」の仕組みをもって【創造】にと走ります。神は元々は唯一であり、この場合は「一霊四魂」ではなく、造化三神としての神の働きなのです。唯一神と陰陽の働きです。その状態を「ひふみ(一二三)」と言っているのです。
そして魂は分裂を起こして増えて行き。種々の分かれを起こして行きます。仏教においてはこの世のあらゆる物に霊性が有ると説きます。それは元は唯一であって、一つの物が分裂してきたわけです。
その分かれにおいて「区別」が生じてきました。神は全てにおいて平等だと言い回っているスピの人達がいますが、差別と区別の意味が理解出来ていないようです。蜂は女王蜂とか働き蜂とか軍隊蜂と定められて誕生してきません。女王蜂によって産み出された幼虫に与えられたローヤルゼリーで次の女王蜂とか働き蜂とか軍隊蜂の役割に従事するわけです。これらは差別ではなくて区別なのです。
魂が人として生まれて来る。猿として生まれて来る。犬として生まれて来る。猫として生まれて来る。これらは魂の差別化ではなくて本来は区別化なのです。日本の六根清浄の祝詞では、【天地の神と同根なるがゆえに、万物の霊と同体なり】とありますが、そういう区別の話なのです。その区別化は神によるものなのです。
仏教では【転生】が説かれますが、蛇霊や狐霊や狸霊と成るのも自己の魂の過ちからカルマが生じて霊的に「転生」している話なのです。ですからその魂が悔い改めてカルマの浄化をすれば、元の姿と成って元の界に戻ることも可能となるのです。神は愛で何でも赦すではないのです。
大本教神諭に枝葉の神の教えが栄えて、根元を枯らしてなんとするがありますが、根元と呼ばれる「根元たる唯一神」があるのです。その「根」が無ければ何も成り立たなかったのです。その根の意味が「艮(ウシトラ)」の意味であって、私達の個々の「魂」論を為すのです。
今、この地球上(三次元物質界)に存在する私達肉体の中にある魂とは、魂の世界としては【根の国・底の国】に追いやられているわけです。きついことを言われる神通力者さんですと、宇宙の出来そこないの魂が集まっている世界だです。また魂の「刑務所」と言われる方もありますが、神の意図にそうした世界でも神の天国世界を創ろうとされた意図があったのです。この三次元世界が「型」世界であることは、型たる刑に服しているのです。その刑の世界で、面白ければと遊んでいたのでは、さらにその刑は重くなるだけなのです。
創造神の意図(糸)は私達には図るわけには行きませんが、魂の分裂の過程の中においては物質世界のこの世は下の世界に組しています。そこから、唯一神にと向かって魂の先祖の段階にと進むわけです。
よく言われる神人合一とは、自己の魂の分裂の過程におい五次元世界以上に存在する自分の魂に合一する話をしているわけです。自分の肉体が五次元世界に上がるのじゃないのです。どこまでも五次元以上の自分の魂に合一なのです。元の高次元世界にと帰って行く話です。これが本守護神とか正守護神と呼ばれる存在なのです。
その存在が出て来たならば、それが自分の魂で有るとは解るのです。いきなり私達が創造神の段階に辿り着くなどはあり得ないことなのです。
自分が高次元の自分と合一した時の話であれば、五井昌久師の著書にも記載されています。体験すれば五井昌久師が言われている合一話は嘘ではないと解ります。だが、今の三次元地上世界でその状態で暮らせるかと聞かれたら、とても無理です。この三次元世界の肉体は高次元世界の肉体としては不向きなのです。
その【三時】で調べると解りませんでした。これは「三時」ではなくて、【三時業】のことでした。
三時業とは、
・順現業(じゅんげんごう)−現世において受ける業(カルマ)。曹洞宗では順現報受(じゅんげんほうじゅ)。
・順生業(じゅんしょうごう)−次の生で受ける業。曹洞宗では順次生受(じゅんじしょうじゅ)。
・順後業(じゅんごごう)−三回目以降の生において受ける業。曹洞宗では順後次受(じゅんごじじゅ)。
すなわち、私達が過去世で犯した罪による業(カルマ)は、今生において支払う分。次の世において支払う分。そして、三回目以降に支払う分があるということなのです。つまり一時で全部は返せないので、三回の生を持って支払うローンのような話なのです。
この三回は定まっているので「定業」と呼び、他に報いを受ける時期が定まっていないものを「順不定業」と言っているわけです。
これを見ると、明らかに仏教は「輪廻転生」を説いているにも関わらず、仏教は輪廻転生を説いていないと主張する方が多かった事実に対して、完全に仏教が形骸化しているとしか考えられません。
曹洞宗の「修証義」においては、「仏祖の道を修習するには、その最初よりこの三時の業報の理をならいあきらむなり」とあります。まず、仏の教えを知るには、最初にこの三時業(カルマの支払い)のことをよく知っておきなさいです。
次ぎに「修正儀」は説きます。解り易く意訳しますと「しかあらざれば多く誤りて邪見に堕ちるなり。ただ邪見に堕ちるのみに非ず悪道に堕ちて、長時の苦を受けます」。このことを知っていないと、誤った見知にはまってしまいますよと言うことなのです。
しかし、私達日本人はほとんど仏教徒ですが、こうした話は聞いていなかったがほとんどでしょう。私も今回知ったほどなのです。つまり、僧侶達も檀家信徒に面と向かって三時を説いていないのです。仏教では、今は末法期でお釈迦様の説かれた教えも形ばかりで形骸化し、正法が知られていないということも「三時業」を考えれば、そうしたことが言えます。
一部に、自分は仏教で悟りを得た聖者のような顔をして説かれる方がありますが、変ですね。こうした三時の話を聞いたことがありません。でも、その人を聖者の様に拝する人は後を絶ちません。
スピの世界では、「あなたの前世」はという商売が流行っていますが、実際問題としては嘘八百並べて言っても解らないが本当です。仏教の「三時業」の教えを見れば、貴方の前世のカルマを取りましたと言われても、今世分を取ってもらっても来世分はどうするの?。次の世の分は?。となります。スピそのものがこの「三時業」の教えなど知らない教えなのです。
だが、この【業による因果】とは、何も自分が過去世において犯した罪だけが「応報(目には目・歯には歯)」として現れるのではないのです。
自分が生まれた家系が背負っている【業による因果】が存在してきます。そこに因果解消の【菩薩道】も存在してきます。これが意外と知られておりません。為に誤った因果応報を言われる方がありまして、時にはそれが世間に悶着を起こすことがあります。
例えば、自分が被差別部落に生まれた時、お前は前世で人を差別したからだと言う意見があります。必ずしもそうではないのです。そうした差別社会を無くそうとして、そうした家系に降りて来られる魂もあるのです。自分が身をもって差別される苦しみを知らないと、差別と戦えないからです。
被差別部落とはいわれの無い話です。古代において戦いに負けた者達が勝てば官軍・負ければ賊軍であまり人が住まない川原とか山奥の僻地に追いやられた出来事で有り、個々の犯罪とは何の関係も無いのです。魂的に見ると、そうした歴史的なことも学ばないで差別する方の魂とは劣っているのです。何事も学べば自分が誤っていたと解る話です。
それには、まず自分が置かれた立ち位置を知るのではなくて、認識する必要が出て来ます。誰でも解る当たり前のことではあるのですが、残念ながらスピ系ではまったく理解していない方を多々見受けられます。
誰が見ても当たり前の図です。私達は突然に肉体を持ってこの世に現れるわけではないのです。自分がこの世に生存するのには父母が存在し、その父母にも父母たる祖父母が存在しています。その祖父母にも父母があって曾祖父母が居ます。その曾祖父母にも父母である高祖父母が存在します。
これは自分を初代とした場合の話で、民法で言うところの親族の親等計算ではありません。この先祖の言い方を間違われる方があります。自分の子供は二代目とか呼ばれるはずです。孫は三代目ですね。すると、自分の父母も逆に見ると二代目なのです。祖父母は三代目なのです。
私達は御先祖様と言った時、どうしても直系の御先祖様ばかりに目が行きますが、自分の肉体に流れている血脈とか肉体の遺伝子はこうした御先祖さんの流れを受けているのです。
そうなりますと、御先祖様は無限に広がるのですが、だいたいの論として六代前位の御先祖霊は輪廻転生の中で生まれ変わっておられる可能性がありますので、それ以上はあまり考えなくてもいいわけです。
仮に27代前で遡りますと、それまでの累計御先祖霊は現在の日本の人口並の一億三千万体からになってしまいます。一代37年と計算しても僅か千年ほどです。
無論、御先祖は生まれ変わっていると決めつけも出来ません。何故ならば輪廻転生の中に入らず、何百年とか何千年とか何万年と霊界で存在しておられる方もあるにはありますので、全ての霊が輪廻転生の中に入っているのではないのです。
ある夜、夢を見ていてその光景とは五万年前の私の身に起きた出来事です。翌日二番目の師匠の元で霊媒通しをしたところ、その夢の中で出て来ていた霊はやはり五万年前の話をします。それを見ていた当時の師匠が何と猿顔の男だなと言います。私の夢の中ではその男はフードを被っていたのですが、それでも見えた猿顔に私も最初は猿かとギョッとしていたほどです。その霊は未だ当時から生まれ変わってはいないと言います。何故に私の前に出て来たかと言いますと、五万年前のある戦闘で貴方を助けたことを忘れないで欲しいでした。しかし、五万年前と言われても弱るわけです。
今の人類だと知らない古代であり、聖書に残る水の審判と呼ばれるものがあったとすれば、それ以前の話でしょう。
私の父方の叔父が某神宮に参拝したところ、勅使門が開けられて、そこから出て来た某神宮の方が叔父を呼び意味が解らずに着いて行ったところ、天皇家関係者以外は昇段禁止の場所から神殿に上げられて宮司が付き添っての参拝になったと言います。
あまりの不思議に叔父が宮司さんに理由を尋ねたところ、その宮司さんいわく。御神霊から何月何日何時頃に斯く斯く然々でこうした者が参拝して来るので、勅使門から神殿に上げるように御神霊から承っておりますのでと言われて面食らったと言います。私も叔父も血脈は一緒のはずなのですが、何故か私にはそうした厚遇の体験はありません。
叔父はその不思議に霊能者の方に家系の流れを調べていただいたところ、ある天皇に当たったと言います。私はその話を叔父から聞いて、私の家系は清和源氏の流れの丹波源氏の郷士ですから天皇系に辿り着いても別に不思議ではないし、日本国民ならば皆御先祖の御先祖と辿っていけば御先祖のどこかに天皇家に縁があっても何等不思議な話ではないでしょうと一蹴しておりました。
この話をある霊能者の方に話しましたところ、某神宮でしょう。あの神宮の宮司さんは御神霊と会話が出来るので、私も参拝した時には御祭神の大国主命様との関係から勅使門から神殿に上げて貰いましたと言われていました。
つまり、私達は御先祖を言う場合家系の直系だけを見ているので、とんでもない数の御先祖さんがあるということに気づいていないわけです。今、自分がここにあるのは御先祖様の御陰です感謝される方があります。だが、それは直系だけの御先祖を見ているのであって、母方を見ていないわけです。自分が今ここにあるということは、とんでもない数の御先祖様があっての話なので、もっと大きな視野で見なければならないのです。そうなれば社会に対する感謝も湧くわけです。
一般的に各自の魂の「カルマ」は個人の過去世に犯した悪業によるものが多いのですが、個々の個人の魂によるカルマではなくて、自分が生まれた家系に溜まっているカルマの消滅の為に出る魂も存在してきます。
そうした時、何もそんなカルマが溜まった家系に生まれ出てカルマを解消する為に苦労する必要はないだろうという意見になろうかとは思います。
霊界でも高い世界に進む修業は出来ますが、その歩みは遅いのです。それは霊界における各自の世界は同じ想念の者だけが集まって社会を創っている為に、どうしても横並び、ドングリの背比べで抜きん出ることが出来ません。しかし、地獄の様な状態に入ってしまう家系のカルマの中で、その家庭のカルマの解消を勤め上げた魂は霊界に入れば「菩薩」の様な立場に変わってしまうのです。
自分は何でこんな地獄の様な立場にあるのだと悲観される方がありますが、それは自分が選んだ「菩薩道」かも知れませんし、自分が覚えていない前世のカルマを解消すれば前途洋々なのです。一時の「苦」に負けては行けないのです。
私達が持っている【意識】は肉体の命が終われば、それで終わりではありません。それからが永遠とか不滅とかで言われる魂で霊界にと渡ります。
では、先程の家系図を逆さにしてみましょう。今度は肉体側から見ずに、霊界側から見るわけです。
この図は単に先出しの図を回転させただけで、魂の分裂に関しましては「一霊四魂」の法則に基づいてきますので、図としては正しくはありません。便宜上です。
魂の分裂図に関しましては、このブログの【自分がいと小さき者と知る為に、魂の分裂図】の中に、大本教霊界物語で示された図が入れてありますので、それらを参考にしてください。
この宇宙の初発に「意識」が存在しました。その意識が【想像神】であり、無から有が生じて「1・2・3」の仕組みをもって【創造】にと走ります。神は元々は唯一であり、この場合は「一霊四魂」ではなく、造化三神としての神の働きなのです。唯一神と陰陽の働きです。その状態を「ひふみ(一二三)」と言っているのです。
そして魂は分裂を起こして増えて行き。種々の分かれを起こして行きます。仏教においてはこの世のあらゆる物に霊性が有ると説きます。それは元は唯一であって、一つの物が分裂してきたわけです。
その分かれにおいて「区別」が生じてきました。神は全てにおいて平等だと言い回っているスピの人達がいますが、差別と区別の意味が理解出来ていないようです。蜂は女王蜂とか働き蜂とか軍隊蜂と定められて誕生してきません。女王蜂によって産み出された幼虫に与えられたローヤルゼリーで次の女王蜂とか働き蜂とか軍隊蜂の役割に従事するわけです。これらは差別ではなくて区別なのです。
魂が人として生まれて来る。猿として生まれて来る。犬として生まれて来る。猫として生まれて来る。これらは魂の差別化ではなくて本来は区別化なのです。日本の六根清浄の祝詞では、【天地の神と同根なるがゆえに、万物の霊と同体なり】とありますが、そういう区別の話なのです。その区別化は神によるものなのです。
仏教では【転生】が説かれますが、蛇霊や狐霊や狸霊と成るのも自己の魂の過ちからカルマが生じて霊的に「転生」している話なのです。ですからその魂が悔い改めてカルマの浄化をすれば、元の姿と成って元の界に戻ることも可能となるのです。神は愛で何でも赦すではないのです。
大本教神諭に枝葉の神の教えが栄えて、根元を枯らしてなんとするがありますが、根元と呼ばれる「根元たる唯一神」があるのです。その「根」が無ければ何も成り立たなかったのです。その根の意味が「艮(ウシトラ)」の意味であって、私達の個々の「魂」論を為すのです。
今、この地球上(三次元物質界)に存在する私達肉体の中にある魂とは、魂の世界としては【根の国・底の国】に追いやられているわけです。きついことを言われる神通力者さんですと、宇宙の出来そこないの魂が集まっている世界だです。また魂の「刑務所」と言われる方もありますが、神の意図にそうした世界でも神の天国世界を創ろうとされた意図があったのです。この三次元世界が「型」世界であることは、型たる刑に服しているのです。その刑の世界で、面白ければと遊んでいたのでは、さらにその刑は重くなるだけなのです。
創造神の意図(糸)は私達には図るわけには行きませんが、魂の分裂の過程の中においては物質世界のこの世は下の世界に組しています。そこから、唯一神にと向かって魂の先祖の段階にと進むわけです。
よく言われる神人合一とは、自己の魂の分裂の過程におい五次元世界以上に存在する自分の魂に合一する話をしているわけです。自分の肉体が五次元世界に上がるのじゃないのです。どこまでも五次元以上の自分の魂に合一なのです。元の高次元世界にと帰って行く話です。これが本守護神とか正守護神と呼ばれる存在なのです。
その存在が出て来たならば、それが自分の魂で有るとは解るのです。いきなり私達が創造神の段階に辿り着くなどはあり得ないことなのです。
自分が高次元の自分と合一した時の話であれば、五井昌久師の著書にも記載されています。体験すれば五井昌久師が言われている合一話は嘘ではないと解ります。だが、今の三次元地上世界でその状態で暮らせるかと聞かれたら、とても無理です。この三次元世界の肉体は高次元世界の肉体としては不向きなのです。
修証義、いたずらに百歳生きるは恨むべき日月なり
0
- 2013.04.27 Saturday
- -
- 00:02
- -
- trackbacks(0)
- -
- by 上野公園
先のブログには「修証義、地獄に案内する貪瞋痴(とんじんち)」を書きましたが、今回は同様に修証義の中の第五章「行持報恩」の中に有ります【いたずらに百歳生きるは恨むべき日月なり】に関して少し述べたいと思います。
何故かと言いますと、私は子供の頃に姿無き声から教えを受けていました。無論、当時は子供のことですから難しいことを言われたのではなくて、易しい言葉で教えを受けていました。
それは、この世で人が生きている意味です。ほとんどのスピの方達が簡単に言うだけで深く言及しない「魂」に基づく教えです。人は生まれて死んで生まれて死んでを繰り返している。これは一般的に【輪廻転生】として言われていることです。そして、魂がこの世に人として出て来るのは魂の修行・修学の意味だと。
しかし、輪廻転生は仏教には教えがありますが、聖書には無く、また日本神道にも確たる教えとしては存在しません。ただ、祝詞の「十種神宝」などに人は死んでも、更に生きなんとあるぐらいのことです。
それは、この世で人が生きている意味です。ほとんどのスピの方達が簡単に言うだけで深く言及しない「魂」に基づく教えです。人は生まれて死んで生まれて死んでを繰り返している。これは一般的に【輪廻転生】として言われていることです。そして、魂がこの世に人として出て来るのは魂の修行・修学の意味だと。
しかし、輪廻転生は仏教には教えがありますが、聖書には無く、また日本神道にも確たる教えとしては存在しません。ただ、祝詞の「十種神宝」などに人は死んでも、更に生きなんとあるぐらいのことです。
よく魂は不滅だと言われる方がありますが、私が子供の頃に受けた教えは、魂は不滅ではなくて腐ったり潰れたりもするです。腐ったり潰れたりすれば、もう次ぎに人として出る幕は無くなるわけです。
私自身は腐ったり潰れたりしている魂を霊的に見て来ましたが、スピでもそうしたものを見たことも無い方が、魂が腐る潰れるなどは無いと主張されること対しては別に意は唱えません。単にその人は見ていないだけの話だからです。見ていない以上は否定論も成り立つからです。見ていないからと反論すれば不毛の論議になります。
仏教においてお釈迦様はダキニ天に対して、腐った魂だけを食べればいいではないかと説かれたとありますように、仏典ですら腐った魂の存在を説いているわけですから、腐った魂や潰れた魂が存在しても別に不思議な話ではないのです。
もう腐ってしまった魂は、その人に真の信仰心が無い限り、助けようがないのです。
私自身は腐ったり潰れたりしている魂を霊的に見て来ましたが、スピでもそうしたものを見たことも無い方が、魂が腐る潰れるなどは無いと主張されること対しては別に意は唱えません。単にその人は見ていないだけの話だからです。見ていない以上は否定論も成り立つからです。見ていないからと反論すれば不毛の論議になります。
仏教においてお釈迦様はダキニ天に対して、腐った魂だけを食べればいいではないかと説かれたとありますように、仏典ですら腐った魂の存在を説いているわけですから、腐った魂や潰れた魂が存在しても別に不思議な話ではないのです。
もう腐ってしまった魂は、その人に真の信仰心が無い限り、助けようがないのです。
大本教の出口王仁三郎聖師は、この世は【天人の苗床】と言われていますが、この世の生き方において、霊界に帰れば天人と呼ばれる霊界でも高い世界に入るとか、お釈迦様の様に悟りを得たから二度とこの世には出て来ないとも言えますし、自らは仏陀に成らずとも他の人を天人界に渡そうと働く天使の様な役に徹するもあるわけです。
だが、この世に出て来て遊んでいたのでは、落ちて行くのみなのです。
だが、この世に出て来て遊んでいたのでは、落ちて行くのみなのです。
その修証義の第五章「行持報恩」の中の一説に下記のようなものがあります。
いわゆるの道理は日日の生命をなおざりにせず、私に費さざらんと行持するなり、光陰は矢より迅(すみや)かなり、身命は露より脆(もろ)し、いずれの善巧(ぜんぎょう)方便ありてか過ぎにし一日をふたたび還し得たる、いたずらに百歳生けれんは恨むべき日月なり悲しむべき形骸なり、説(たと)い百歳の日月を聲色(しょうしき)の奴婢と馳走すとも、その中の一日の行持を行取せば一生の百歳を行取するのみにあらず、百歳の佗生(たしょう)をも度取すべきなり、この一日の身命は尊ぶべき身命なり、尊ぶべき形骸なり、
いわゆるの道理は日日の生命をなおざりにせず、私に費さざらんと行持するなり、光陰は矢より迅(すみや)かなり、身命は露より脆(もろ)し、いずれの善巧(ぜんぎょう)方便ありてか過ぎにし一日をふたたび還し得たる、いたずらに百歳生けれんは恨むべき日月なり悲しむべき形骸なり、説(たと)い百歳の日月を聲色(しょうしき)の奴婢と馳走すとも、その中の一日の行持を行取せば一生の百歳を行取するのみにあらず、百歳の佗生(たしょう)をも度取すべきなり、この一日の身命は尊ぶべき身命なり、尊ぶべき形骸なり、
意訳します、道理と言われますものは日々の命をなおざりにせず、私(自分勝手・自己本位・我れ好し)に費やそうとせずに行持(修行の意味、前の文で説かれている)することなのです。
私達のこの世での時間とは魂の時間にすれば一瞬であり、その身命(肉体の命)とは草の葉の露ごときものなのです。どのような良い方法を持ってしても過ぎ去った時は二度と戻っては来ません。
真理に対して何も学ぶこと無く100歳生きたとしても、それは後で悔いる日月であり無意味な日月なのです。たとえ100歳の間、聲色の奴婢(諸々の声・上からの命令による奴隷)で走り回っていたとしても、その中の一日でも行持(真理に基づく感謝報恩・この経ではそれを仏と見做す)得たならば、その100歳は無意味な100歳ではなくて、価値がある100歳となるのです
その行持を得た一日は尊ぶべき身命であり。尊ぶべき形骸なのですよ。そうしたことを述べているわけです。
この修証義は禅宗の教本ですから、仏はお釈迦様を指します。お釈迦様が全ての頂点と考えるわけでして、聖書に置き換えれば別にエホバでもいいわけです。その頂点(唯一)から発した事柄に関して感謝報恩が必要だという教えなのです。すなわち、自分はそうした存在によって生かされていることを理解することなのです。
私達のこの世での時間とは魂の時間にすれば一瞬であり、その身命(肉体の命)とは草の葉の露ごときものなのです。どのような良い方法を持ってしても過ぎ去った時は二度と戻っては来ません。
真理に対して何も学ぶこと無く100歳生きたとしても、それは後で悔いる日月であり無意味な日月なのです。たとえ100歳の間、聲色の奴婢(諸々の声・上からの命令による奴隷)で走り回っていたとしても、その中の一日でも行持(真理に基づく感謝報恩・この経ではそれを仏と見做す)得たならば、その100歳は無意味な100歳ではなくて、価値がある100歳となるのです
その行持を得た一日は尊ぶべき身命であり。尊ぶべき形骸なのですよ。そうしたことを述べているわけです。
この修証義は禅宗の教本ですから、仏はお釈迦様を指します。お釈迦様が全ての頂点と考えるわけでして、聖書に置き換えれば別にエホバでもいいわけです。その頂点(唯一)から発した事柄に関して感謝報恩が必要だという教えなのです。すなわち、自分はそうした存在によって生かされていることを理解することなのです。
光陰(月日)は矢の如しと言いますが、私が子供の頃に受けた教えは、人のこの世での一生とは長いように感じるであろうが、魂の世界からすると、数日の時間のようなものである。あっと言う間のことである。その短い時間の間に何を習得するのか?。その数日間の時間を学んだ者と遊んでいた者とでは、大きく違って来る。この世で100年生きようとも、何も学ばなければ無意味な100年である。
それでは何の為にこの世に出たのか?。あの世に帰って来てから、貴方はこの世に何をしに出たのかと問われるであろうと。
それでは何の為にこの世に出たのか?。あの世に帰って来てから、貴方はこの世に何をしに出たのかと問われるであろうと。
この世で長生きすることは長寿で、おめでたいことです。しかし、それは肉体上の話であって、必ずしも魂の成長とか進化とは結びつきません。私達はこの世に何の為に生まれてきたのか?。そこに視点を合わせますと、この世で生きた年数はそれほど意味がないのです。問題は、貴方はこの世で何を学んだかなのです。
無論、長く生きる方が、この世で人の為社会の為に尽くしていればより貢献度も高くなりますし、悔い改めのチャンスも広がって来るわけです。
無論、長く生きる方が、この世で人の為社会の為に尽くしていればより貢献度も高くなりますし、悔い改めのチャンスも広がって来るわけです。
ある事例が存在します。10歳くらいの男のお子さんだったのですが亡くなられました。自分の肉体の親の夢枕に立って、自分はこれから〇〇之命として神界の御用をすると告げたわけです。そして霊能者を通じて活躍始めたわけです。
普通の感覚で行けば、それはおかしいだろう。たったこの世で10歳しか生きていなかった子供に何が解るかとなりますが、魂は輪廻転生であって、その魂は過去から生きているのです。何も知らない10歳の子供ではないのです。ただ単に今回のこの世での命は10年だけだった話です。
私も今世では別に霊能者の方のように世に出なくてもいいことになっています。霊界に帰ればある地位に就くことになっています。ただ、それは私に臨んだ声が悪神でなかったならばの話でしょう。悪神ならば空手形かも知れません。だが、別に私はその地位に就きたいわけではありませんので、どうでもいいことです。
普通の感覚で行けば、それはおかしいだろう。たったこの世で10歳しか生きていなかった子供に何が解るかとなりますが、魂は輪廻転生であって、その魂は過去から生きているのです。何も知らない10歳の子供ではないのです。ただ単に今回のこの世での命は10年だけだった話です。
私も今世では別に霊能者の方のように世に出なくてもいいことになっています。霊界に帰ればある地位に就くことになっています。ただ、それは私に臨んだ声が悪神でなかったならばの話でしょう。悪神ならば空手形かも知れません。だが、別に私はその地位に就きたいわけではありませんので、どうでもいいことです。
私はヴェーダ典にある「人の中に眠れるコブラ(蛇)が目ざめて走り上がる時、人は真理に目ざめる」を体験しました。これはヴェーダ典に記されているので昔の聖者の方達はコブラ(蛇)の目覚めを経験されたのでしょう。だが、それ以上のことが調べても解らない。現代というか近世の修行者は体験すらしていないから追求に走らなかったのでしょう。
ただただ真理を求めて走った日々でした。その中で「人には良心と呼ぶ神が内在する」に突き当たったわけです。それはお釈迦様の本当の悟りだったわけです。
しかもそれは言葉の仕組みで見ると、五十六億七千万であり「みろく(369)」でなければ紐解けないようになっているわけです。
私は創造神を知る者ではありません。しかし、言葉の仕組みを読んで来て、数千年に渡って仕組みをこしらえて来た神が存在するとは認識出来たわけです。
ただただ真理を求めて走った日々でした。その中で「人には良心と呼ぶ神が内在する」に突き当たったわけです。それはお釈迦様の本当の悟りだったわけです。
しかもそれは言葉の仕組みで見ると、五十六億七千万であり「みろく(369)」でなければ紐解けないようになっているわけです。
私は創造神を知る者ではありません。しかし、言葉の仕組みを読んで来て、数千年に渡って仕組みをこしらえて来た神が存在するとは認識出来たわけです。
多くの人から支持されているからと説く方の教えが「真理」の道ではありません。真理の道がそんなに簡単ならば、とっくの昔に真理は説かれていたでしょう。本当に真理に向かって行くのであれば、「蛇」を頭上に帰らせる必要があるのです。【オロチ(大蛇)】とは降ろされた知恵の意味であり、「巳(蛇)帰る」でないと真理には向かえないからです。
真理の道は難しいと逃げる。それは仏教の法華経に良薬は口に苦しとあるように、人は楽に生きたいと苦い教えからは逃げるわけです。それでは100歳生きたところで、高き神の道にも進めず、自分の魂の位を上げる事も出来なくなるのです。
真理の道は難しいと逃げる。それは仏教の法華経に良薬は口に苦しとあるように、人は楽に生きたいと苦い教えからは逃げるわけです。それでは100歳生きたところで、高き神の道にも進めず、自分の魂の位を上げる事も出来なくなるのです。
修証義、地獄に案内する貪瞋痴(とんじんち)
0
- 2013.04.20 Saturday
- -
- 00:00
- -
- trackbacks(0)
- -
- by 上野公園
日本の禅宗の曹洞宗の経典として、信徒が日々称えるお経として【修証義(しゅうしょうぎ)】があります。私は曹洞宗の門徒の家に生まれ出たのですが、九歳で父を亡くして、その父に対しては亡くなった当時は毎夜毎夜般若心経を唱えていましたが、他の御経は知らず、ここ三十数年間は日本神道で来ていましたので祝詞と般若心経ばかり、曹洞宗の御経に触れることもありませんでした。
だが父の死後五十八年を経過して母を失い、喪主となって親戚などが逮夜で集まりますので曹洞宗の御経に触れることになったわけです。ただ、法華経に関しては前から少しは触れておりました。
だが父の死後五十八年を経過して母を失い、喪主となって親戚などが逮夜で集まりますので曹洞宗の御経に触れることになったわけです。ただ、法華経に関しては前から少しは触れておりました。
通常の御経は法華経でもそうですが漢字で書かれた物で、特に「陀羅尼」語の物ともなれば、その発音に合わせた漢字が振ってある為に意味がさっぱり解らないのが現状です。私はお釈迦様もイエスも説かれなかった「言霊」と呼ばれる世界に足を踏み入れたことで、言霊の霊力を知ることが出来ました。
仏教で陀羅尼語を翻訳もせずに発音のままに使っているのは、そのサンスクリット語で発音する言霊に威力を感じたからでしょう。しかし、日本人が理解出来ない陀羅尼語の発音御経を使ってどうなのだろうかという疑問は感じます。
何故かと言いますと、日本語のアイウエオ、イロハ、ヒフミなどはそれそのものが言霊として威力を発揮します。特に「イロハ」の場合は、その言霊の並びそのものが人生訓のように説かれています。
日本で大本教と呼ばれる宗教が起きて、仏教で陀羅尼語で来た日本人に日本語の「イロハ」の言霊を説いたのも、言霊の概念からすれば必然だったのかも知れません。
仏教で陀羅尼語を翻訳もせずに発音のままに使っているのは、そのサンスクリット語で発音する言霊に威力を感じたからでしょう。しかし、日本人が理解出来ない陀羅尼語の発音御経を使ってどうなのだろうかという疑問は感じます。
何故かと言いますと、日本語のアイウエオ、イロハ、ヒフミなどはそれそのものが言霊として威力を発揮します。特に「イロハ」の場合は、その言霊の並びそのものが人生訓のように説かれています。
日本で大本教と呼ばれる宗教が起きて、仏教で陀羅尼語で来た日本人に日本語の「イロハ」の言霊を説いたのも、言霊の概念からすれば必然だったのかも知れません。
そうしたなかで曹洞宗の「修証義」は開祖道元禅師が書かれた「正法眼藏(しょうぼうげんぞう)」から抜粋して、日本語の口語で書かれた御経なので日本人にはその意味がはっきりと解ります。
その「修証義」の中に下記の語句があります。死後の世界に旅立ちの話です。明治に編纂されたもののようです。
その「修証義」の中に下記の語句があります。死後の世界に旅立ちの話です。明治に編纂されたもののようです。
【唯一人黄泉(こうせん)に趣くのみなり、己に随(したが)い行くは只(ただ)これ善悪業等のみなり、今の世に因果を知らず業報を明らめず、三世を知らず、善悪を辨(わき)まえざる邪見のともがらには群すべからず、おおよそ因果の道理は歴然(れきねん)として私なし、造悪の者は堕ち、修善の者は陞(のぼ)る、毫釐(ごうり)もたがわざるなり、もし因果亡(ぼう)じて虚しからん如きは、諸仏の出世あるべからず、祖師の西来あるべからず】解り易く言いますと、人は死ねばただ一人で黄泉の国に向かわなければなりません。自分に従って行くのは自分がこの世で積んだ善悪のみです。
今の世で因果というものを知らず業報を明らかにせず、過去・現世・未来の三世を知らず、善悪をわきまえない邪見(因果の道理を無視した誤った考え)の仲間達とは群れてはいけません。
およそ因果の道理は歴然として私(個人の考え方)というものはないのです。悪を造った者はおちて、修善(善に修正をした)者はあの世での地位が上がるのです。それは毛一本(毫釐)も違わないのです。もし因果と呼ばれるものが亡いとしたならば、諸仏も現れなかっただろうし、達磨大師(祖師)がインドから中国に渡ることもなかったでしょう。
今の世で因果というものを知らず業報を明らかにせず、過去・現世・未来の三世を知らず、善悪をわきまえない邪見(因果の道理を無視した誤った考え)の仲間達とは群れてはいけません。
およそ因果の道理は歴然として私(個人の考え方)というものはないのです。悪を造った者はおちて、修善(善に修正をした)者はあの世での地位が上がるのです。それは毛一本(毫釐)も違わないのです。もし因果と呼ばれるものが亡いとしたならば、諸仏も現れなかっただろうし、達磨大師(祖師)がインドから中国に渡ることもなかったでしょう。
私はヤフーの掲示板の東洋哲学の輪廻転生で数年間論陣を張っていましたが、その時、自分は仏法を学んで来た。覚醒した。お釈迦様の教えに輪廻転生などは無い。人は死ねば終わりだ。いい加減な論を張るなと掲示板は猛烈な荒らしにあってしまいました。
そうした否定は一般在家だけではなくて、僧侶と呼ばれる職にありながら自己のホームページやブログに、死後の世界などは無い。霊等無い。人は死ねば終わりだと公言する僧達も多く、では貴方がたが拝んでおられる仏とは存在しないものかとなります。その意味でもう仏法も終わっているのかも知れません。
そうした否定は一般在家だけではなくて、僧侶と呼ばれる職にありながら自己のホームページやブログに、死後の世界などは無い。霊等無い。人は死ねば終わりだと公言する僧達も多く、では貴方がたが拝んでおられる仏とは存在しないものかとなります。その意味でもう仏法も終わっているのかも知れません。
私にはそうした方達が、どこを見て自分は仏法を学んだ。覚醒したと主張されるのかさっぱり解りませんが、法華経もよく読めば輪廻転生しますとお釈迦様が直接に言われたなどは確かに書かれてはおりませんが、随所に輪廻転生を意味するものは入っています。基本的に仏教は三世(過去・現在・未来)を説いているのであって、過去の自分があって今の自分があり来世の自分があるので、輪廻転生論なのです。ただ、その証明は物理的科学的には出来ないということなのです。
だが、自己は覚醒しているなどの主張ばかりで聞く耳を持たない方に対しては、いくら説明しても聞く耳がないので話にはなりません。常に問答無用。
まさに、今の世で因果というものを知らず業報を明らかにせず、過去・現世・未来の三世を知らず、善悪をわきまえない邪見(因果の道理を無視した誤った考え)の仲間達とは群れては(交わっては)いけないなのです。
もし仏教から因果応報や三世の教えを抜いてしまえば、仏教には価値が無くなってしまいます。
だが、自己は覚醒しているなどの主張ばかりで聞く耳を持たない方に対しては、いくら説明しても聞く耳がないので話にはなりません。常に問答無用。
まさに、今の世で因果というものを知らず業報を明らかにせず、過去・現世・未来の三世を知らず、善悪をわきまえない邪見(因果の道理を無視した誤った考え)の仲間達とは群れては(交わっては)いけないなのです。
もし仏教から因果応報や三世の教えを抜いてしまえば、仏教には価値が無くなってしまいます。
私は時々霊能者と呼ばれる方から、貴方の背後はには「閻魔大王」様が居られますねと言われることがありますが、別に肯定も否定もしません。私自身は神通力者や天狗から攻撃を受けた時、閻魔庁の助けを受けたからです。別に金棒を持った鬼が助けに来たのではありません。だからこそ、鬼と云う意味は「魂」の話だと理解もするわけです。
また、私は幼い子供の頃に臨んだ声に「輪廻転生」を教えられて来ているからです。そんな話を信じているのかと聞かれれば、長い年月霊的世界を見聞して来て、輪廻転生は信じていますし、その声が言った言葉による神の仕組みを見させてもらいました。言葉の仕組みは神社に鎮座されている御神霊では出来るものではありません。
また、私は幼い子供の頃に臨んだ声に「輪廻転生」を教えられて来ているからです。そんな話を信じているのかと聞かれれば、長い年月霊的世界を見聞して来て、輪廻転生は信じていますし、その声が言った言葉による神の仕組みを見させてもらいました。言葉の仕組みは神社に鎮座されている御神霊では出来るものではありません。
全てのスピの人達ではありませんが、神は光だ!愛だ!。何をしても赦されるのだと説いて居られる方達が見受けられます。そして「あるがまま」と。よくそれで自分が覚醒していると大ボラを吹けるものだと感心しています。そうした方はこの【修証義】を読まれた方がいいのです。
無論、何をしても神の愛で赦されるのだと言われるスピの方達は、これまでの宗教の教えはありもしない地獄論で人類を脅しているの一点張りでしょうが。私から見れば、その方を聖者の様に慕っている人達を地獄に案内する気ですかと問いたい心境です。
無論、何をしても神の愛で赦されるのだと言われるスピの方達は、これまでの宗教の教えはありもしない地獄論で人類を脅しているの一点張りでしょうが。私から見れば、その方を聖者の様に慕っている人達を地獄に案内する気ですかと問いたい心境です。
そうしたスピの方達も、過去・現世・未来を言われるでしょう。それが仏教では「三世」として説かれて来たわけです。特にスピ系の方は自分の前世を言いたがる節がありますが、何故にあなたは自身の過去の罪を赦されて、またこの世に産まれ出ているのか?。その本質を知らなければならないのです。それは神は光だ!愛だ!で赦されるの論理ではないからです。
旧約聖書。「目には目、歯には歯を」。これは【因果応報】の意味なのです。自分が犯した罪は自分で刈り取るなのです。自己の罪(業)の刈り取りが終わるまでは、例え畜生界に身を落とそうとも、輪廻転生は免れないのです。
ただ、信仰することによって罪の消滅は段階的に存在しますが、それには自らを悔い改める。懺悔が必要となって来るのです。
旧約聖書。「目には目、歯には歯を」。これは【因果応報】の意味なのです。自分が犯した罪は自分で刈り取るなのです。自己の罪(業)の刈り取りが終わるまでは、例え畜生界に身を落とそうとも、輪廻転生は免れないのです。
ただ、信仰することによって罪の消滅は段階的に存在しますが、それには自らを悔い改める。懺悔が必要となって来るのです。
私が修業時代に体験した話を一つしましょう。二十数年前です。私がある女性と交際していると、突然にその当時の2番目の師匠が、おまえはいま女性と交際しているだろう。その女性と付き合ってはいけないと言い。その女性のことを語り出したのです。その女性はミニバイクで交通事故を起こして一人の男性を業務上過失致死で死なせていると。それは事実話で私もその女性から聞いていました。一年間交通刑務所に入ったと。その男性には妻と幼い子供が残されたのです。
それだけだと、別にその師匠だけではなく、優れた霊能者ならば言うでしょう。それだけだと特別の話でもなんでもありません。だが、この二人の間には隠れた因縁が存在していたのです。時代は江戸時代か戦国時代と思われますが、この女性はその男性、当時はヤクザのような無頼者だったようですが、この女性を手込めにして殺していたのです。そしてその復讐劇は今生で為されたわけです。
現世の肉体はそれを知らなくても過去からの魂は知っていて、魂が魂に復讐したとその師匠は言い出したのです。だからそれは過失致死ではなくて殺人だと。因果応報がなされた。殺人者と交際してはいけないと注意が来たのです。
それだけだと、別にその師匠だけではなく、優れた霊能者ならば言うでしょう。それだけだと特別の話でもなんでもありません。だが、この二人の間には隠れた因縁が存在していたのです。時代は江戸時代か戦国時代と思われますが、この女性はその男性、当時はヤクザのような無頼者だったようですが、この女性を手込めにして殺していたのです。そしてその復讐劇は今生で為されたわけです。
現世の肉体はそれを知らなくても過去からの魂は知っていて、魂が魂に復讐したとその師匠は言い出したのです。だからそれは過失致死ではなくて殺人だと。因果応報がなされた。殺人者と交際してはいけないと注意が来たのです。
仮にあなたが前世で人殺しであったとしても、またこの世に出されて来ます。それは神の愛とか慈悲ではないのです。過去世の罪が残っているのならば、それを償わなければならないのです。それが法則なのです。真理なのです。
日本人の大多数は仏教徒です。そうした時、法事などに行けば次のような御経を聞くでしょう。ただ、宗派によって少し言葉が違う場合もありますが、意味はほとんど同じです。
【我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞう しょあくごう)皆由無始貪瞋痴(かいゆむし とんじんち)、従身語意之所生(じゅうしんごい ししょしょう)あるいは従身口意之所生(じゅうしんくいししょしょう)、一切我今皆懺悔(いっさいがこん かいさんげ)】意訳しますと、私が昔から造って来た諸々の悪業は、皆、無の始まりから貪(我愛)や瞋(怒り)や痴(真理を学ぼうとしない愚かさ)によって、我が身や言葉や心(意)によって生じたのであり、それらの全てを懺悔します。
【我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞう しょあくごう)皆由無始貪瞋痴(かいゆむし とんじんち)、従身語意之所生(じゅうしんごい ししょしょう)あるいは従身口意之所生(じゅうしんくいししょしょう)、一切我今皆懺悔(いっさいがこん かいさんげ)】意訳しますと、私が昔から造って来た諸々の悪業は、皆、無の始まりから貪(我愛)や瞋(怒り)や痴(真理を学ぼうとしない愚かさ)によって、我が身や言葉や心(意)によって生じたのであり、それらの全てを懺悔します。
私が残念なのは、スピの方達は皆さんそれなりの霊感を持たれています。今では仏教の教えは非科学的だと言う人が大多数で、医学や科学で死後の世界(霊界)の存在は否定されてしまっています。為に教えそのものが形骸化しました。真理を悟ろうとする者が居なくなってしまいました。
だが、スピのように霊感がある方が自分の霊感に溺れずに、真理の道を学ぶ方向転換されたならば、仏教の教えもイエスの教えも、より多くの人を納得させることが出来るはずなのです。
なのに真理を学ぼうとせずに、ただ霊感に頼って蛇霊や野狐の容器に成り下がっていることなのです。宇宙人だと思わせる存在も今日までのサニワでは蛇霊だったりが多いのです。以前、幾つか踊る宗教がありましたが、天照大御神と名乗る蛇霊だったり、宇宙人と称する黒龍神の手下の仕業だったりがありました。
奇跡に惑わされてはならないのです。大切なことは善悪をはっきりと見極めることなのです。何をしても赦される「あるがまま」などは、地獄に案内する者達が発する教えなのです。真のあるがままは聖者の段階に入った人達だけであって、善悪を認識出来ない痴の段階にある者に対しては説いてはいけない教えです。
だが、スピのように霊感がある方が自分の霊感に溺れずに、真理の道を学ぶ方向転換されたならば、仏教の教えもイエスの教えも、より多くの人を納得させることが出来るはずなのです。
なのに真理を学ぼうとせずに、ただ霊感に頼って蛇霊や野狐の容器に成り下がっていることなのです。宇宙人だと思わせる存在も今日までのサニワでは蛇霊だったりが多いのです。以前、幾つか踊る宗教がありましたが、天照大御神と名乗る蛇霊だったり、宇宙人と称する黒龍神の手下の仕業だったりがありました。
奇跡に惑わされてはならないのです。大切なことは善悪をはっきりと見極めることなのです。何をしても赦される「あるがまま」などは、地獄に案内する者達が発する教えなのです。真のあるがままは聖者の段階に入った人達だけであって、善悪を認識出来ない痴の段階にある者に対しては説いてはいけない教えです。
イエスは悔い改めなさいと説きました。また仏教も「懺悔」を説いているのです。自分が過去世で犯した罪が解らない。だから、常に自己を【省みる】が必要なのです。為には、善悪を判定するミカエルの働きである「良心(この世の閻魔)」神が大切なのです。
にほんブログ村
この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。
にほんブログ村
この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。
白狐面を被った老神の本当の正体は?
0
- 2013.04.13 Saturday
- -
- 00:02
- -
- trackbacks(0)
- -
- by 上野公園
母親の初七日を終えた翌日、私の前の霊的スクリーンに一人の白の作務衣風姿に白狐面を被った方が見えて来ました。各地の祭りに見られる白狐踊りの様な出で立ちです。その方がその白狐面を一瞬の間取られた。老人の顔立ちであるが、すぐにまたもやその面を被られたので深く見ることは出来なかった。だが、私に名を名乗られずともその白狐面の方がどなたであるのかは解りました。
私が高校2年生の修学旅行で別府の海地獄を見ていた時、水面に映る私の姿の輪郭だけが何故か金色の帯になっていたのです。が、私同様に水面を見ている人の輪郭には現れていない。?と思って横で見ている同級生を見たが、それに気がついていないので、これは私だけに見えていると解ったしだい。
その時、しまった。私は神様を背負って産まれて来ている。これは偉いこっちゃだとその場を逃げ出したのです。
しかし、私はいったい如何なる神様を背負って生まれて出てきたのかと思うと、私に見えて来たのは白装束で仙人のような姿をした男性の老神の方であった。その姿を見た時、私はその方の名は浮かばなかったが、とんでもない方を背負っていると理解出来たのです。
この方は神界でも鬼軍曹的な方で、その指導方針はしごきにしごき。その厳しさは神界随一と言ってもおかしくない存在。とんでもない方を背負っていると自然に解ったのです。これから先の自分の人生を思うと、ため息が出る始末。
私が最初の師匠とした方は、後に伏見稲荷神を信仰する講員で組織される伏見稲荷大社講務本庁の婦人部長になられたが、その霊能力は当時の伏見稲荷大社講務本庁所属の稲荷行者としては�1とも�2とも言われていた実践実力者の方でした。豊受様はその師匠に当時の日本で10本指に入る霊能者と言われたそうですが木村藤子さんの様な方でした。
その師匠と二人して伏見稲荷山で瀧行をしていると、私達の瀧行を師匠の御祭神である豊受姫様と私が高校生の時に見たその仙人姿の方が並んで見ておられる。そこで師匠に「豊受様と並んで私達を見ておられるあの方はどなたですか?」と聞くと、あれが「〇〇様ですよ」と教えて貰えた。あの方は名高き〇〇様だったか!。そして、私の守護神の一員でもあると師匠から教えられたのです。
だが、世に○○様に関して言われている姿とは違っていました。すると師匠は、世に言われている〇〇様はその配下の方達で、ほとんどの霊能者の方はその配下の方を見ておられます。あの御方が本家本元の〇〇様です。そうしたことを言われます。
では、どうしてその〇〇様が私に関わっておられたのかとなりますと、私が生まれた本家の本屋には稲荷の祠があったのです。家系の御先祖様がその〇〇様を信仰されていたようです。しかし、私の祖父のあたりから捨てて置かれたようで、祠も朽ち果てていて、私も本家本屋に稲荷の祠があることさえよく知らなかったほどなのです。
その師匠が言います。「〇〇様の言われる事は、起承転結の起結の部分だけが本当で、中の承転の部分がほとんど嘘になります。で、どういうことですかと聞き返しましたところ、最初あることを言われます。それを本当だと信じて行くと、途中が全て嘘だったりするのです。その嘘に振り回されます。だが、言われたことを信じてその道を行き終わってしまうと、最初に言われた通りになっているのです。
その時の私はその言葉をなんとなく聞いていました。始めと終わりだけが本当で、途中が皆嘘など聞いたことがないからです。仏教的に言えば嘘も方便でもって行くやりかたなのかも知れません。
だが、豊受姫様と並んで姿を見せられる。これはどういう意味なのか疑問符が出ましたが、師匠はそれに対しては何も答えてくれませんでした。そして20数年を経て、ある方を通じてとんでも内容が来ました。そんな話は記紀神話には存在しない話になります。
ほとんどの方は記紀神話で不思議なことに気づかれておりません。伊弉諾尊伊弉冉尊から生まれ出た神々の話が記紀神話ですが、では、その伊弉諾尊と伊弉冉尊の出生に関しては何も書かれていないということなのです。
それはこの〇〇様と呼ばれている神の出所に関わる話です。で、その師匠の元に本当かと聞きに行きましたところ、初めて豊受姫様とその〇〇さんとの関係を教えてくれました。そんな関係話は日本神話には存在しません。が、豊受様と並んでおられる理由は解ったしだいです。
この〇〇さんは、日本では信仰するしないは別として、その名を知られる有名な神です。だがその名のみにあらず、日蓮宗では別の名前で祭られていますし、他では別の稲荷名で祭られていたりします。この〇〇さんを主宰神とする宗教教団は存在しませんが、その勢力はある意味で神界の雄なのです。
大本教神典には、世の立替にあたっては白狐は下郎の役で奉仕するがあります。大本教霊界物語では旭と高倉の2体の白狐が合体して「月日明神」として活躍しますが、その旭と高倉は〇〇さまの配下であったのかも知れません。
それは大本教霊物語ではこの〇〇さんは、ある命(みこと)名で表現されているからです。また大本教出口なお開祖との関係も調べれば宇志採羅金神の九鬼神道家の守護神である〇〇様の系列の稲荷に当たりますし、また豊受姫との関係も浮かび上がって来ます。出口なおさんの出身家である桐村家が豊受姫と関係して来るからです。
その白狐面の方(〇〇さんが)が私に言われます。
世の人は、私のことを「白狐」と思っているようであるが、私は白狐には非ず。ただ、自分の身を伏せる為に白狐の出で立ちで人に見せることがある。それで私のことを白狐だと思う人達が出て来た。どこまでもこの身を伏せる為の仮の姿にしか過ぎない。
世に、自分に国常立尊様の神示が降りると称する者はあれども、国常立尊と呼ばれる神は人間に懸かって直接に神示を降ろすなどというような存在ではない。必要がある者に対しては媒介する存在をもってして、間接的にその言葉は伝えられるものである。
それは私もよく理解していることです。高い霊が低次元段階の魂を入れてある肉体人間に直接降りるというのは非常に危険な行為であり、その肉体を持った者の精神を破壊してしまう危険性があるからです。為に、その魂より少し上の段階の存在の霊を通じて内容を降ろすことになります。これを一般的に媒介天使と称している方達もあります。
為に高級神霊を降ろそうとすれば、それに見合った魂を肉体に持つ方を探さないと行けなくなります。つまり、誰でも彼でも高級神霊の霊媒には成れないと言うことなのです。お釈迦様やイエスは特別の魂を持った存在であり、普通の霊媒者ではないのです。
それをわきまえずに霊感があるからと無理に霊媒者にしてしまうと、わらわは〇〇大明神であるぞと名乗りだして、そのお尻を見ると大きな尻尾が見えるということになりかねないのです。
大本教神諭に、この艮金神は巫女などに神懸かりなどしないとありますが、巫女たる霊媒者を数多く見て来ましたが、蛇霊や狐霊や不浄仏霊を懸からせてその想いを喋らせる方が優秀な霊媒者と言えますが、高級霊を降ろすとなるとかなり難しいのです。
多くの霊能者が関わっている霊の世界と呼ばれているのは蛇霊や野狐霊や狸霊や恨み霊や浮遊霊と呼ばれている霊と関わって、それらから来る霊障の処理が出来る方が優秀な霊能者と言えます。霊障を起こすのはそうした存在だからです。為にそうした霊能力が優秀だからと言って、高い神霊の言葉を告げられる霊媒とはならないのです。その霊媒者が持っている魂の霊格が左右するからです。
以前、この〇〇さんから私はあることを告げられたことがあります。世に神示と呼ばれるもの多々あるが、そうした神示には本物もあれば偽物もある。本当のことと嘘のことを織り交ぜて、その上で暗号文のようにして降ろす。それは邪神達に真実を隠して欺く為である。神示を頭から鵜呑みにしてはいけない。その内容が本当なのか嘘なのか。それを吟味してそこに隠された暗号を紐解けば解るであろうと。
その〇〇様は私に言われる。
そなたのこれまでの苦労には感謝する。また、そなたの母じゃのこれまでの苦労にも感謝する。そなたの母じゃのことは何の心配もせずともよい。豊国姫様の元に向かって歩んでいる。
そなたはこれまで何の力も持たずに今日までやって来た。これから少しずつそうした力もついてくるであろう。と言われます。
しかし、その言葉を聞いても私自身は納得したわけではないのです。この方が言われることはどこまでが本当で、どこから嘘なのかがさっぱり解らないからです。結果としては私の今生は神界の鬼軍曹にしごかれて来たようなものです。
そうした時、私の今生が不幸なのは悪神にやられているからだと言われる方があります。なるほど、今生だけを見ればそれは言えます。しかし、魂は長い時代の変遷を経ているのであって、よい暮らしで過ごした時もあるだろうし、悪い暮らしの時もあったでしょう。そのトータルにおいて考えるべきことなのです。
今生だけを考えるのは、魂のカルマすら見ていない論議になります。西洋風に言えばミカエルの天秤が言われますが、別に今生だけの天秤ではないのです。長い輪廻転生におけるトータルの天秤なのです。
ただ、私が思うにこの方はその神名において多くの信者を持ち。また、他の神名においても多くの信者を持たれており、その配下の白狐はもの凄い数にのぼっています。
何故にその身を伏せて忍んでおられたのか?。謎の部分です。
にほんブログ村
この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。
私が高校2年生の修学旅行で別府の海地獄を見ていた時、水面に映る私の姿の輪郭だけが何故か金色の帯になっていたのです。が、私同様に水面を見ている人の輪郭には現れていない。?と思って横で見ている同級生を見たが、それに気がついていないので、これは私だけに見えていると解ったしだい。
その時、しまった。私は神様を背負って産まれて来ている。これは偉いこっちゃだとその場を逃げ出したのです。
しかし、私はいったい如何なる神様を背負って生まれて出てきたのかと思うと、私に見えて来たのは白装束で仙人のような姿をした男性の老神の方であった。その姿を見た時、私はその方の名は浮かばなかったが、とんでもない方を背負っていると理解出来たのです。
この方は神界でも鬼軍曹的な方で、その指導方針はしごきにしごき。その厳しさは神界随一と言ってもおかしくない存在。とんでもない方を背負っていると自然に解ったのです。これから先の自分の人生を思うと、ため息が出る始末。
私が最初の師匠とした方は、後に伏見稲荷神を信仰する講員で組織される伏見稲荷大社講務本庁の婦人部長になられたが、その霊能力は当時の伏見稲荷大社講務本庁所属の稲荷行者としては�1とも�2とも言われていた実践実力者の方でした。豊受様はその師匠に当時の日本で10本指に入る霊能者と言われたそうですが木村藤子さんの様な方でした。
その師匠と二人して伏見稲荷山で瀧行をしていると、私達の瀧行を師匠の御祭神である豊受姫様と私が高校生の時に見たその仙人姿の方が並んで見ておられる。そこで師匠に「豊受様と並んで私達を見ておられるあの方はどなたですか?」と聞くと、あれが「〇〇様ですよ」と教えて貰えた。あの方は名高き〇〇様だったか!。そして、私の守護神の一員でもあると師匠から教えられたのです。
だが、世に○○様に関して言われている姿とは違っていました。すると師匠は、世に言われている〇〇様はその配下の方達で、ほとんどの霊能者の方はその配下の方を見ておられます。あの御方が本家本元の〇〇様です。そうしたことを言われます。
では、どうしてその〇〇様が私に関わっておられたのかとなりますと、私が生まれた本家の本屋には稲荷の祠があったのです。家系の御先祖様がその〇〇様を信仰されていたようです。しかし、私の祖父のあたりから捨てて置かれたようで、祠も朽ち果てていて、私も本家本屋に稲荷の祠があることさえよく知らなかったほどなのです。
その師匠が言います。「〇〇様の言われる事は、起承転結の起結の部分だけが本当で、中の承転の部分がほとんど嘘になります。で、どういうことですかと聞き返しましたところ、最初あることを言われます。それを本当だと信じて行くと、途中が全て嘘だったりするのです。その嘘に振り回されます。だが、言われたことを信じてその道を行き終わってしまうと、最初に言われた通りになっているのです。
その時の私はその言葉をなんとなく聞いていました。始めと終わりだけが本当で、途中が皆嘘など聞いたことがないからです。仏教的に言えば嘘も方便でもって行くやりかたなのかも知れません。
だが、豊受姫様と並んで姿を見せられる。これはどういう意味なのか疑問符が出ましたが、師匠はそれに対しては何も答えてくれませんでした。そして20数年を経て、ある方を通じてとんでも内容が来ました。そんな話は記紀神話には存在しない話になります。
ほとんどの方は記紀神話で不思議なことに気づかれておりません。伊弉諾尊伊弉冉尊から生まれ出た神々の話が記紀神話ですが、では、その伊弉諾尊と伊弉冉尊の出生に関しては何も書かれていないということなのです。
それはこの〇〇様と呼ばれている神の出所に関わる話です。で、その師匠の元に本当かと聞きに行きましたところ、初めて豊受姫様とその〇〇さんとの関係を教えてくれました。そんな関係話は日本神話には存在しません。が、豊受様と並んでおられる理由は解ったしだいです。
この〇〇さんは、日本では信仰するしないは別として、その名を知られる有名な神です。だがその名のみにあらず、日蓮宗では別の名前で祭られていますし、他では別の稲荷名で祭られていたりします。この〇〇さんを主宰神とする宗教教団は存在しませんが、その勢力はある意味で神界の雄なのです。
大本教神典には、世の立替にあたっては白狐は下郎の役で奉仕するがあります。大本教霊界物語では旭と高倉の2体の白狐が合体して「月日明神」として活躍しますが、その旭と高倉は〇〇さまの配下であったのかも知れません。
それは大本教霊物語ではこの〇〇さんは、ある命(みこと)名で表現されているからです。また大本教出口なお開祖との関係も調べれば宇志採羅金神の九鬼神道家の守護神である〇〇様の系列の稲荷に当たりますし、また豊受姫との関係も浮かび上がって来ます。出口なおさんの出身家である桐村家が豊受姫と関係して来るからです。
その白狐面の方(〇〇さんが)が私に言われます。
世の人は、私のことを「白狐」と思っているようであるが、私は白狐には非ず。ただ、自分の身を伏せる為に白狐の出で立ちで人に見せることがある。それで私のことを白狐だと思う人達が出て来た。どこまでもこの身を伏せる為の仮の姿にしか過ぎない。
世に、自分に国常立尊様の神示が降りると称する者はあれども、国常立尊と呼ばれる神は人間に懸かって直接に神示を降ろすなどというような存在ではない。必要がある者に対しては媒介する存在をもってして、間接的にその言葉は伝えられるものである。
それは私もよく理解していることです。高い霊が低次元段階の魂を入れてある肉体人間に直接降りるというのは非常に危険な行為であり、その肉体を持った者の精神を破壊してしまう危険性があるからです。為に、その魂より少し上の段階の存在の霊を通じて内容を降ろすことになります。これを一般的に媒介天使と称している方達もあります。
為に高級神霊を降ろそうとすれば、それに見合った魂を肉体に持つ方を探さないと行けなくなります。つまり、誰でも彼でも高級神霊の霊媒には成れないと言うことなのです。お釈迦様やイエスは特別の魂を持った存在であり、普通の霊媒者ではないのです。
それをわきまえずに霊感があるからと無理に霊媒者にしてしまうと、わらわは〇〇大明神であるぞと名乗りだして、そのお尻を見ると大きな尻尾が見えるということになりかねないのです。
大本教神諭に、この艮金神は巫女などに神懸かりなどしないとありますが、巫女たる霊媒者を数多く見て来ましたが、蛇霊や狐霊や不浄仏霊を懸からせてその想いを喋らせる方が優秀な霊媒者と言えますが、高級霊を降ろすとなるとかなり難しいのです。
多くの霊能者が関わっている霊の世界と呼ばれているのは蛇霊や野狐霊や狸霊や恨み霊や浮遊霊と呼ばれている霊と関わって、それらから来る霊障の処理が出来る方が優秀な霊能者と言えます。霊障を起こすのはそうした存在だからです。為にそうした霊能力が優秀だからと言って、高い神霊の言葉を告げられる霊媒とはならないのです。その霊媒者が持っている魂の霊格が左右するからです。
以前、この〇〇さんから私はあることを告げられたことがあります。世に神示と呼ばれるもの多々あるが、そうした神示には本物もあれば偽物もある。本当のことと嘘のことを織り交ぜて、その上で暗号文のようにして降ろす。それは邪神達に真実を隠して欺く為である。神示を頭から鵜呑みにしてはいけない。その内容が本当なのか嘘なのか。それを吟味してそこに隠された暗号を紐解けば解るであろうと。
その〇〇様は私に言われる。
そなたのこれまでの苦労には感謝する。また、そなたの母じゃのこれまでの苦労にも感謝する。そなたの母じゃのことは何の心配もせずともよい。豊国姫様の元に向かって歩んでいる。
そなたはこれまで何の力も持たずに今日までやって来た。これから少しずつそうした力もついてくるであろう。と言われます。
しかし、その言葉を聞いても私自身は納得したわけではないのです。この方が言われることはどこまでが本当で、どこから嘘なのかがさっぱり解らないからです。結果としては私の今生は神界の鬼軍曹にしごかれて来たようなものです。
そうした時、私の今生が不幸なのは悪神にやられているからだと言われる方があります。なるほど、今生だけを見ればそれは言えます。しかし、魂は長い時代の変遷を経ているのであって、よい暮らしで過ごした時もあるだろうし、悪い暮らしの時もあったでしょう。そのトータルにおいて考えるべきことなのです。
今生だけを考えるのは、魂のカルマすら見ていない論議になります。西洋風に言えばミカエルの天秤が言われますが、別に今生だけの天秤ではないのです。長い輪廻転生におけるトータルの天秤なのです。
ただ、私が思うにこの方はその神名において多くの信者を持ち。また、他の神名においても多くの信者を持たれており、その配下の白狐はもの凄い数にのぼっています。
何故にその身を伏せて忍んでおられたのか?。謎の部分です。
にほんブログ村
この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。
光だ!闇だ!の2元論には、大いなる疑問符がつく
0
- 2013.04.06 Saturday
- -
- 00:01
- -
- trackbacks(0)
- -
- by 上野公園
相も変わらず神は光だから、姿など無いと言っている人達が居られます。私の過去のブログに【神は光だ!で天狗さん。神は光でも姿が見える】を書いていますので、何かの参考になればと。
私は霊媒型霊能者ではないので日常茶飯事に霊を見る者ではありません。また霊と日常的に会話する者でもありません。霊界の一端を垣間見た見聞者にしか過ぎませんが、どらかと言えばサニワ型に属する者なのです。
一応、幽体離脱とか自分の魂を神界に飛ばして見聞した経験もありますので、霊媒型の方が言われる内容に関しては解ります。自分の魂を飛ばしたことがない方だと、儀式的なことばかりに集中して事の本質にたどり着けていないきらいが見られます。しかし、これは持って生まれた肉体の体質にもよりますので、霊が見えたから偉いとか立派なのではないのです。
【百聞は一見にしかず】と言いますが、幽体離脱とか魂を飛ばすは霊的世界を知るのに非常に重要なファクターになって来ます。魂(意識)の存在を自分で納得出来るからです。それがないと魂論も上の空で聞くことになってしまいます。
ただ、一部に知られている器具等を使った作用によるものは、脳内作用の幻影で本当の幽体離脱ではないとも言われる方があるようです。自然体においての幽体離脱であり、自己の守護霊や守護神が導いての霊界見聞です。
ただ、そのサニワとは霊を見てその姿でサニワするのではなくて、その霊や霊媒者の方が代位して言われる言葉を聞いていて、その言っている言葉の内容がおかしいぞと言葉の内容で判断しているのです。その言葉の矛盾を問い糾すです。言葉の矛盾を突かれた霊は立ち往生します。そうした存在は神と名乗っていても神ではないわけです。外形でごまかせないぞです。
霊と呼ばれる者はどのようにも姿を変えられますので、姿だけでは判断は出来ない面があります。また、神は光だと光だと一点張りの方がおられますが、霊が見せる光には段階があって、自分がより高い光の世界と感応出来ないのであれば、龍神クラスが見せる光に踊ってしまうことも起きるようです。あまりにもまばゆい光を見て、それが最高神だと思い込んでしまうです。
光が強いとか弱いは、光を見せる魂の霊格が高い低いよりも、その霊が持つエネルギーが強いか弱いかで決まる要素と思われます。強く燃えている火が放つ光は強く、弱く燃えている火が放つ光は弱いわけです。ですから、龍神(聖書では霊界の年老いた蛇霊)と呼ばれる存在が放つ光は強く感じることになります。
精神世界のランキング等を拝見していますと霊媒者の方が矛盾だらけことを言われているのに、その内容の矛盾に何も気づかずに、その方を応援されるスピ好きの方が多いようです。霊界に対する本人の無知もありますが、少しは自分の知恵とか理性を働かせないと騙されます。
そこでその方(霊媒型)の言動を黙って見ている(読んでいる)と、その方の背後に居てその方を通じて言わせている背後霊と言うか、ハイヤーセルフと称しているその方にとっては光の存在が、本当は何者かが見えて来ることがあります。その方にとってはそれが光としか見えない存在であっても、私に見えているのは大蛇霊がとぐろを巻いて口を開けていたりするのです。その霊能者の言う内容に引っ掛かる者を霊的に飲み込むためです。
非常に優れた霊能者の方ですと、そこに出て来ている霊を一瞬にして蛇や狐や狸霊等見破ってしまわれるほどの方も居られますが、私などはその霊と会話しないとそれが蛇霊や狐霊や狸霊が化けているとなかなか見破れないのです。それでもそうした姿が見えて来るがあります。私は霊的にはかなり鈍感タイプではあるのです。
神は光だからお金を取る霊能者は信用してはいけないと言いながら、自分の鑑定は3万円とか5万円とか高額料金にしている方がいられますが、易者に見て貰っても三千円程度は取られますので、易者程度の金額は構わないでしょうが、あまりにも高額設定。何の為にブログに出て来るのか?。ブログの世界で自分の顔を売って、ミニ教祖になったりスピ商売で儲けようとしたりするわけです。現実にそうして信徒を集めて、ランキングから去られた方も存在します。
その内容が全て当たるのならば設定料金が例え3万円でも5万円でも高くはないと言えますが、私は長年霊的世界に関わっていて100%の正解率を持たれる霊能者を見たことがありません。嘘もあるし当たっていないが多々あります。
当たるも八卦。当たらぬも八卦。高い鑑定料金を取られて、当たってもいないことを言われたのでは踏んだり蹴ったりなのです。
私は霊媒型霊能者ではないので、ほとんど波動を感じません。だが、【神は光だ!で天狗さん。神は光でも姿が見える】に書いた神通力者さんは、御本人が自分はそんじょそこらの霊能者とは桁違いの神力を持っていると豪語されるだけあって、霊的波動に鈍感な私でもそのその波動をネット上でビシビシと感じたぐらいです。
それ以後、その神通力者さんを上回る波動をネット上で出している方を探してはいるのですが、若干名しか見つかりませんでした。でも、ネットでも解るというのも嘘ではないわけです。
そうした中で護摩の火で神仏を写真に顕現させる神通力者さんが居られまして、なかなかそこまでの方は居られませんので、少し某サイトでお付き合いをしていましたところ、ある方の魂の判断を巡って意見の相違が出ました。
するとその神通力者さんが自分(その方の)の見立てが正しい。そうではないと言う私に対して、貴男(私)など何の光も無い者ではないかと言われるので、そこまで言われるのならば、私の背後に誰が居られるのかはっきりと霊視しなさいと申し上げましたところ、見たことも無いもの凄い光だ。光に殺される。申し訳ありませんでしたと詫び状を頂きました。
私が【人に内在する良心神】を説き始めた最大の理由は、ある光の世界を見たからなのです。その光は太陽光でもなければ、霊界の太陽の光でも無い。究極のエクスタシー(至福)の光でありながら、魂に汚れがあればそれこそ【光に殺される】なのです。もしも、この光が放たれたならば、その光を受けることが出来なかったならば、それこそ光そのものに殺されてしまいかねません。
この光は何だ!。この光に耐えられる教えは何だ!。そこから私に出て来たのが【人に内在する良心神】なのです。
だが、この光は現時点では各自の魂の核に仕舞われているので、この光を知るには自分自身が天の岩戸と呼ばれる様な戸を開けないと見ることが出来ないのです。そこに出て来る問題は、見ることが出来ない光をどのように説いたらよいのか?。なのです。
これは光透波(ことは)の仕組みでしか説明出来ないのです。国常立尊とは日本の国に常に立つ御言(ミコト)の意味になりますので【日本語】で紐解けるのです。そこに「ラ」神論とか「ス」神論などが起きるように仕組まれていたわけです。その日本語の仕組みに三千年かかったとされているわけです。
私はほとんどの方が御存知無い言霊学の師匠の元で言霊の力を拝見して来ましたので、言葉とは単なる波動では無いと理解しているわけです。それ故に聖書の中の初発の意味が解るのです。
そうしたものを見聞して来ますと、光だ!闇だ!。そんな二元論に何時までも止まっていてはいけないと感じるわけです。
何かと言えば、光と闇ばかり言っておられる方は、かなり勘違いがあると思われます。先程書いたように、光とはエネルギーの放射である以上、二元論には適さないのです。
子供の頃、何故か【拝火教】拝火教と出て来ます。何の意味かと思っていました。
光=火仮・火借り=火が燃えているのが光。
俗に【火の玉】と呼ばれるものがあります。火の玉を見られたならば解ると思いますが【火で燃えた玉】なのです。これはその亡くなった方の【念(燃)】なのですが、念が燃える原因なのです。
光もまた燃えている以上【燃(念)】なのです。私達が言う一般的な光とは太陽で、太陽もまた燃えているわけです。
何をもってして光と言い。何をもってして闇と言っているのかです。それを言うのであれば「善と悪」なのです。天国とか善の世界は純粋な光を放っていて、地獄とか悪の世界は純粋な光を放っていない。その概念で考えないといけなくなります。その場合は善悪の二元論にはなるのです。
しかし、そこに疑問符が出て来ます。龍蛇や天狗や狐や狸霊であっても光が強い。それは何だとなります。霊界におけるエネルギーが強いと言うことなのです。聖書においては、龍は「霊界で年老いた蛇霊」となっていますが、龍蛇も光を放っているのです。霊界に置いて年を経るとは霊的エネルギーが強くなったなのです。
今では誤訳から間違った解釈がなされたとされる存在に聖書における光の天使長ルシファーがあります。近世までルシファーは悪魔(サタン)だとも言われて来たわけです。
すると、悪魔は「光の天使長」となってしまいます。仮にルシファーがサタンだと仮定しても、その存在は光の天使長で在り、誰よりも光輝いていることになります。それで光だ闇だ。そんな論理は成り立たないわけです。
正神であろうと邪神であろうと、全て「光」を放つ存在ではあるのです。それなのに光だ!。闇だと!。だけを言う方はかなりの無知と見受けられます。
光の世界に向かいましょうと言うスローガンは正しいでしょう。しかし、高い光の世界に向かうとは、自分の魂を磨くことなのです。魂磨きは辛いから止めるということは、その段階で魂の成長を止めてしまうことなのです。
私は霊媒型霊能者ではないので日常茶飯事に霊を見る者ではありません。また霊と日常的に会話する者でもありません。霊界の一端を垣間見た見聞者にしか過ぎませんが、どらかと言えばサニワ型に属する者なのです。
一応、幽体離脱とか自分の魂を神界に飛ばして見聞した経験もありますので、霊媒型の方が言われる内容に関しては解ります。自分の魂を飛ばしたことがない方だと、儀式的なことばかりに集中して事の本質にたどり着けていないきらいが見られます。しかし、これは持って生まれた肉体の体質にもよりますので、霊が見えたから偉いとか立派なのではないのです。
【百聞は一見にしかず】と言いますが、幽体離脱とか魂を飛ばすは霊的世界を知るのに非常に重要なファクターになって来ます。魂(意識)の存在を自分で納得出来るからです。それがないと魂論も上の空で聞くことになってしまいます。
ただ、一部に知られている器具等を使った作用によるものは、脳内作用の幻影で本当の幽体離脱ではないとも言われる方があるようです。自然体においての幽体離脱であり、自己の守護霊や守護神が導いての霊界見聞です。
ただ、そのサニワとは霊を見てその姿でサニワするのではなくて、その霊や霊媒者の方が代位して言われる言葉を聞いていて、その言っている言葉の内容がおかしいぞと言葉の内容で判断しているのです。その言葉の矛盾を問い糾すです。言葉の矛盾を突かれた霊は立ち往生します。そうした存在は神と名乗っていても神ではないわけです。外形でごまかせないぞです。
霊と呼ばれる者はどのようにも姿を変えられますので、姿だけでは判断は出来ない面があります。また、神は光だと光だと一点張りの方がおられますが、霊が見せる光には段階があって、自分がより高い光の世界と感応出来ないのであれば、龍神クラスが見せる光に踊ってしまうことも起きるようです。あまりにもまばゆい光を見て、それが最高神だと思い込んでしまうです。
光が強いとか弱いは、光を見せる魂の霊格が高い低いよりも、その霊が持つエネルギーが強いか弱いかで決まる要素と思われます。強く燃えている火が放つ光は強く、弱く燃えている火が放つ光は弱いわけです。ですから、龍神(聖書では霊界の年老いた蛇霊)と呼ばれる存在が放つ光は強く感じることになります。
精神世界のランキング等を拝見していますと霊媒者の方が矛盾だらけことを言われているのに、その内容の矛盾に何も気づかずに、その方を応援されるスピ好きの方が多いようです。霊界に対する本人の無知もありますが、少しは自分の知恵とか理性を働かせないと騙されます。
そこでその方(霊媒型)の言動を黙って見ている(読んでいる)と、その方の背後に居てその方を通じて言わせている背後霊と言うか、ハイヤーセルフと称しているその方にとっては光の存在が、本当は何者かが見えて来ることがあります。その方にとってはそれが光としか見えない存在であっても、私に見えているのは大蛇霊がとぐろを巻いて口を開けていたりするのです。その霊能者の言う内容に引っ掛かる者を霊的に飲み込むためです。
非常に優れた霊能者の方ですと、そこに出て来ている霊を一瞬にして蛇や狐や狸霊等見破ってしまわれるほどの方も居られますが、私などはその霊と会話しないとそれが蛇霊や狐霊や狸霊が化けているとなかなか見破れないのです。それでもそうした姿が見えて来るがあります。私は霊的にはかなり鈍感タイプではあるのです。
神は光だからお金を取る霊能者は信用してはいけないと言いながら、自分の鑑定は3万円とか5万円とか高額料金にしている方がいられますが、易者に見て貰っても三千円程度は取られますので、易者程度の金額は構わないでしょうが、あまりにも高額設定。何の為にブログに出て来るのか?。ブログの世界で自分の顔を売って、ミニ教祖になったりスピ商売で儲けようとしたりするわけです。現実にそうして信徒を集めて、ランキングから去られた方も存在します。
その内容が全て当たるのならば設定料金が例え3万円でも5万円でも高くはないと言えますが、私は長年霊的世界に関わっていて100%の正解率を持たれる霊能者を見たことがありません。嘘もあるし当たっていないが多々あります。
当たるも八卦。当たらぬも八卦。高い鑑定料金を取られて、当たってもいないことを言われたのでは踏んだり蹴ったりなのです。
私は霊媒型霊能者ではないので、ほとんど波動を感じません。だが、【神は光だ!で天狗さん。神は光でも姿が見える】に書いた神通力者さんは、御本人が自分はそんじょそこらの霊能者とは桁違いの神力を持っていると豪語されるだけあって、霊的波動に鈍感な私でもそのその波動をネット上でビシビシと感じたぐらいです。
それ以後、その神通力者さんを上回る波動をネット上で出している方を探してはいるのですが、若干名しか見つかりませんでした。でも、ネットでも解るというのも嘘ではないわけです。
そうした中で護摩の火で神仏を写真に顕現させる神通力者さんが居られまして、なかなかそこまでの方は居られませんので、少し某サイトでお付き合いをしていましたところ、ある方の魂の判断を巡って意見の相違が出ました。
するとその神通力者さんが自分(その方の)の見立てが正しい。そうではないと言う私に対して、貴男(私)など何の光も無い者ではないかと言われるので、そこまで言われるのならば、私の背後に誰が居られるのかはっきりと霊視しなさいと申し上げましたところ、見たことも無いもの凄い光だ。光に殺される。申し訳ありませんでしたと詫び状を頂きました。
私が【人に内在する良心神】を説き始めた最大の理由は、ある光の世界を見たからなのです。その光は太陽光でもなければ、霊界の太陽の光でも無い。究極のエクスタシー(至福)の光でありながら、魂に汚れがあればそれこそ【光に殺される】なのです。もしも、この光が放たれたならば、その光を受けることが出来なかったならば、それこそ光そのものに殺されてしまいかねません。
この光は何だ!。この光に耐えられる教えは何だ!。そこから私に出て来たのが【人に内在する良心神】なのです。
だが、この光は現時点では各自の魂の核に仕舞われているので、この光を知るには自分自身が天の岩戸と呼ばれる様な戸を開けないと見ることが出来ないのです。そこに出て来る問題は、見ることが出来ない光をどのように説いたらよいのか?。なのです。
これは光透波(ことは)の仕組みでしか説明出来ないのです。国常立尊とは日本の国に常に立つ御言(ミコト)の意味になりますので【日本語】で紐解けるのです。そこに「ラ」神論とか「ス」神論などが起きるように仕組まれていたわけです。その日本語の仕組みに三千年かかったとされているわけです。
私はほとんどの方が御存知無い言霊学の師匠の元で言霊の力を拝見して来ましたので、言葉とは単なる波動では無いと理解しているわけです。それ故に聖書の中の初発の意味が解るのです。
そうしたものを見聞して来ますと、光だ!闇だ!。そんな二元論に何時までも止まっていてはいけないと感じるわけです。
何かと言えば、光と闇ばかり言っておられる方は、かなり勘違いがあると思われます。先程書いたように、光とはエネルギーの放射である以上、二元論には適さないのです。
子供の頃、何故か【拝火教】拝火教と出て来ます。何の意味かと思っていました。
光=火仮・火借り=火が燃えているのが光。
俗に【火の玉】と呼ばれるものがあります。火の玉を見られたならば解ると思いますが【火で燃えた玉】なのです。これはその亡くなった方の【念(燃)】なのですが、念が燃える原因なのです。
光もまた燃えている以上【燃(念)】なのです。私達が言う一般的な光とは太陽で、太陽もまた燃えているわけです。
何をもってして光と言い。何をもってして闇と言っているのかです。それを言うのであれば「善と悪」なのです。天国とか善の世界は純粋な光を放っていて、地獄とか悪の世界は純粋な光を放っていない。その概念で考えないといけなくなります。その場合は善悪の二元論にはなるのです。
しかし、そこに疑問符が出て来ます。龍蛇や天狗や狐や狸霊であっても光が強い。それは何だとなります。霊界におけるエネルギーが強いと言うことなのです。聖書においては、龍は「霊界で年老いた蛇霊」となっていますが、龍蛇も光を放っているのです。霊界に置いて年を経るとは霊的エネルギーが強くなったなのです。
今では誤訳から間違った解釈がなされたとされる存在に聖書における光の天使長ルシファーがあります。近世までルシファーは悪魔(サタン)だとも言われて来たわけです。
すると、悪魔は「光の天使長」となってしまいます。仮にルシファーがサタンだと仮定しても、その存在は光の天使長で在り、誰よりも光輝いていることになります。それで光だ闇だ。そんな論理は成り立たないわけです。
正神であろうと邪神であろうと、全て「光」を放つ存在ではあるのです。それなのに光だ!。闇だと!。だけを言う方はかなりの無知と見受けられます。
光の世界に向かいましょうと言うスローガンは正しいでしょう。しかし、高い光の世界に向かうとは、自分の魂を磨くことなのです。魂磨きは辛いから止めるということは、その段階で魂の成長を止めてしまうことなのです。
私の母親が死ぬ前に夢に見たインドと日本の架け橋の仏
0
- 2013.03.30 Saturday
- -
- 00:00
- -
- trackbacks(0)
- -
- by 上野公園
私は当年満91歳で要介護度3で更に胆嚢ガンに犯された母親を2年半ほど自宅で介護看病していましたが、母親はここ一ヶ月ほど食べさせると吐くで水しか飲まず、在宅訪問介護の医師からは栄養ジュースもダメで水しか飲めないのでは、その命はもって3月下旬と言われていた母親を去る24日に亡くしました。
本人も病院では死にたくない。自宅で死にたいと願っていましたし、医師も末期ガンに効く薬は無い。入院しても点滴は単なる水みたいなもので、自力で口に入る間は自宅がよい。自宅介護は大変だが自然死を薦めてくれました。
母が生きている時は極端な多尿症で、容体が悪化してからは自力でトイレに行けず、おしめを嫌って夜中におしっこおしっこと起こされる。おしっこをさせたと思うと、すぐに起こされるで、いらだつことが無かったと言えば大嘘になります。
だが、死なれてしまうと介護からの開放感よりも、介護の大変さが晩年の私の生きる張り合いでもあったとつくづく感じます。虚脱感の方がより大きいからです。人の字は【支え合って】いる姿ですが、支えることもまた生き甲斐だったと言えます。支えることは辛いことではなくて、自分もまた支えることで生きられるのです。
私は満67歳なのですが、私の歳ともなれば両親共は生きておられる方は極端に少なく、母親が生きておられる方もそんなに多くはないでしょう。私は一度も結婚をしておらず、従って妻子もおりませんので独りぼっちとなりました。しかし、幸いに親戚一人も居ないという天涯孤独の身ではありませんでした。
母には兄弟姉妹がありませんでしたが私のイトコたる父方の甥や姪が居て、幸いに私より年長の従姉が近くに数名居てくれたので、何とか曲がりなりにもお葬式を出すことも出来ました。そうしたイトコ達も既に多くが死に何時お迎えが来てもおかしくない者も居ますので、一人で葬式を出すでなくて本当に助かったが偽りのないところです。こうした状態は私だけで無く、幾多の方が同様に介護等のご苦労をされているかと思います。その大変さを【身をもって知る】でした。口先の同情では介護の厳しさは解りません。
ガンの痛みに苦しんで死にたい死にたいと訴える母親を見ると、時には母親を殺して自分も自殺しょうかという衝動に襲われます。介護をしている人が病人を殺す気持ちは単なる介護疲れだけではなくて、見ているのがあまりにも辛くなるからです。
私は素晴らしい体験を積まされたと思っています。そして母は辛かったでしょうが私にその身をもって教えてくれたのです。それは親の慈愛かも知れません。
そうした時、神は無いのかと仏は無いのかとなりますが、助けるだけが神の愛ではないのです。苦は決して魂の成長の邪魔ではないのです。それもまた神の慈愛と言えるのです。
私は子供の頃、神の声と思われるものを聞いていました。それは、そなたの今生は人一倍辛い人生になるでした。次から次へと試練が襲って来る。それでも、修業のお世話になった稲荷神界の豊受の神は、私に苦労をかけ損ねた。もっともっと苦労をしないといけないでした。自分にすれば、どこまで苦労をすればいいのかと不満も出るのも肉体があるからでしょう。
そうした苦労とか試練の連続を受けた時、それをもってその神は「悪魔」だと言う霊能者や霊感者の方が居られます。人に幸せを与えるのが神ならば、確かに試練を与え続ける存在は悪魔だとは言えます。ですから旧約聖書の神、国常立尊は祟り神として嫌われていたわけです。
私は10人ぐらいの霊能者の方から貴方の本守護神は国常立尊(天之御中主)様と告げられましたが、その点から言えば、ここまで私の母や私を苦しめた霊的存在の「国常立尊」は悪魔とも言えます。妻子たる家族が居て、体が健康であればこれほど幸せなことはないからです。そして自分に苦労をさせるなです。この世は楽しく遊んで暮らす処なのだとなります。だが、幸せだけを求めるのであれば、魂の産まれては死に産まれては死にの繰り返しの説明が出来ないのです。また、国常立尊(ヤハウェ・エロヒム)は悪い宇宙人だと言う論理でも説明不可能となってしまいます。何故ならば、宇宙人もまた死んで生まれるの輪廻転生の輪の中にある存在に過ぎないからです。
私自身、遙かなる昔に天使であった時や白龍神であった時の記憶を断片的に持っていて、神の世界の戦いの中で死んでもいるからです。それでもこうしてまた生かされているわけです。
「幸福」の反面は、魂の成長を止める「降伏」であるのかも知れません。幸福だけでは魂の磨きが止まってしまうからです。
私はウシトラ(牛虎)の言葉の意味が解らない人に、いくら説明しても理解には至らないと思っています。魂は単なる「鬼」の話ではないからです。
それは、今回死の前に私の母が言った不思議な内容で解りました。母が死ぬ少し前、不思議なことを言います。厭だ!厭だ!。今でもこんなに苦しんでいるのに、三日三晩も苦しんで石の仏さんを産んで自分は死ぬそうだと言います。
何をバカな話をしているかと問いただすと、夢の中で私の母親は三日三晩苦しんで、インドと日本の架け橋になる石の仏さんを産んで死んだと言う新聞記事が大々的に流れていた。その写真には石の仏さんとその母として自分。そしてその兄としてお前の3人の写真が大きく報道されていたと言うのです。
完全に夢物語で、そうしたことは起きないけれども何かの暗示です。私の母親は意識だけははっきりしていて、単なる妄想を言っていたわけではないのです。日本とインドの架け橋の仏とは、宗教にかなり詳しい方なら解ると思いますが、その架け橋たる仏とは大本教が説いたことで知られるようになった【伊都能売】神のことと思われます。出口王仁三郎聖師は伊都能売観音象を彫られています。が、私の母親が「伊都能売」神の産みの母親とはどういう意味かと首を傾げていました。
出口王仁三郎聖師の弟子で世界救世教の岡田茂吉開祖が説明した「伊都能売」とは、伊都能売神(伊都能賣神皇)は古代日本の最高神であったが、朝鮮から日本に渡来したスサノオなどの好戦的な神を嫌い、中国を経由してインドへ渡って観自在菩薩と名乗り、釈迦に仏教を伝授し、その後、南中国地方に移って観世音菩薩と名を改めたのだという(ウィキペディアより引用)。日本とインドの架け橋です。
私の母親は別に宗教知識を持つ者ではありませんでしたが、その背後に存在したのは豊国姫様でした。
そしてその翌日、またもや母親は不思議なことを言います。自分は何も食べずに水だけを飲んでいるが、自分はミイラになるのだと。
ミイラになる?。それは即身仏の意味だとは解るのですが、それ以上は解りませんでした。だが、ミイラたる即身仏ではなくて、肉体が死ぬことで霊界で即座に神上がりをする意味だったようです。
母が死ぬ少し前、黄金色の光の世界ではなくて透き通った光の世界に入り、本当の光の世界を見たと言います。それは自分がこの世の地獄を味わってこそ見る光の世界なのです。
それが「光透波(ことは)」の世界なのです。
私は母親が本当の光の世界を見たことで、母が死後に行く世界に関しては何も心配していません。
母親が死ぬ直前の夜中に水を吸わせて、少し寝かせて3時間ほど自分が寝て見に行くと死んでいましたが、その死に顔は末期ガンで苦しんだ顔ではなくて、まるで観音様の様に微笑み、そして生きているのかと思うほどでした。ミイラの意味でしょう。
その母親の死に顔を見た親類達がまるで観音様だ。死んでいるとは思えないと評していましたが、母親も自分の守護神さんは観音様かも知れないと言っておりました。観音様が末期ガンで苦しんでいる者を助けないで観音様だろうかと首を傾げておりましたが、その母親がこの世を去って、やはり観音様だったと理解しました。一ヶ月間も水だけで空腹感を一切言わなかったからです。餓鬼の反対なのです。
そして私自身の幻視では、この土地には観音様が立っていると見えるのです。その観音様の額に〇十の記号を見たのです。ただ、それが伊都能売観音とまでは頭が回りませんでした。
しかし、その検証は優れた霊能者の方の手によらないと何とも言えません。
私は子供の頃に母親に向かって、こんな人は自分の母親ではないと思っていましたが、私の前世が判明した後、母親は前世でも自分の肉体の母親だった人だと解りました。ただその時は親子としての縁が薄かった。何の縁もなく、今世でも親子になっていたわけではなかったのです。
母親は自分がこんなに辛い目に遭うのはよほど前世で悪行をした因果かと言っていましたが、そうではなくて世の中の汚れを浄化をさせられていたようです。私が住む土地は大本教の公式文献には何も書かれていませんが、出口王仁三郎聖師がその直弟子の一部の方に残した内容は、弥勒世に関わる場所という内容だからです。
一部のサイキッカーや超能力者によれば、この土地は神界の最終機密ゲートがあり、私が死ぬことによって機密ゲートは閉じられて、人類は高次元に向かうでした。だが、このゲートは大変に汚れていて霊能者の手には負えない。いくら光で浄化すると豪語している方でも、そこは無理だと言われて来た場所です。この土地を浄められるのは私だけだと聞いたことがありますが、私だけでなく私の母もまたこの土地の浄化に勤めていてくれたようでした。
人は必ず死にます。それは止む得ないことです。しかし、その魂は残って次の世にと向かいます。
私が修業のお世話になった稲荷神界の豊受の神は、世の立替(最後の審判)の日時は解らないが、人類はこの地球上に一人も残らないと言われます。私の元にメールをくださる方の中にも自分の守護神から人類は一人も残らないと聞かされていると言われる方もあり、別に豊受様だけが言っておられるわけではないのす。肉体生物としては救えないが、その魂は高次元界にと進ませる。つまり、魂たる【種】が大事なのです。
弥勒の世は三次元界ではありません。最低で五次元界にと進みます。今の肉体では進みようがないのです。
だが、そうした神示に絶対性があるかとなります。豊受の神は、確実に言えることは貴方は世の立替の嵐の中を突き進むでした。私が子供の頃に臨んだ声は、私を最後の審判に立ち会わせるでした。私は子供心に不思議に思い。審判の日に私が生きている確証などないでしょうと聞き返したところ、そなたは審判の日迄は生きている。審判をもってその肉体は死す。その肉体の目でその様を見なければならないと告げられています。
私は来年数えで七十の時を迎えます。俗に享年と呼ばれるものです。来年が私が死ぬ時なのかも知れません。
七十の鳥(酉)とは【鴇(トキ)】の字ですが、別に佐渡の鴇の話ではなくて、時(トキ)の話です。トキは桃花鳥。
大本教神諭、3月3日の桃の花。5月5日の桃の実。伊勢神宮の遷宮の時に使われるのが桃花鳥の鴇(トキ)の羽根。
西暦1999年では無くて、15年遅れの西暦2014年の意味がやっと解けて来ました。私は時を告げるのは「鶏」だとばかり思い込んでいました。
ただ、私がしていることは所詮語るコトバの解釈であり、霊能力で自分を豪語されている方達の足元には及びません。
されど、どれほど自分の霊能力を誇る方も本当の神の光を見てはおられないような気がしてなりません。
光透波(ことは)の世界を見た時、たぶんその神観はガラリと変わるでしょう。
言葉をあだや疎かにするならば、その魂は「光透波(ことは)」に焼き尽くされてしまうことになりかねません。
「光透波(ことは)」は人に非ず。どこまでも「光透波(ことは)」なのです。
人は「光透波(ことは)」に成ることは出来ないのです。
ただ「光透波(ことは)」の代わりに、言葉で知るのです。
人の身でも宇宙人でも霊界人でも、思い上がってはいけないのです。
本人も病院では死にたくない。自宅で死にたいと願っていましたし、医師も末期ガンに効く薬は無い。入院しても点滴は単なる水みたいなもので、自力で口に入る間は自宅がよい。自宅介護は大変だが自然死を薦めてくれました。
母が生きている時は極端な多尿症で、容体が悪化してからは自力でトイレに行けず、おしめを嫌って夜中におしっこおしっこと起こされる。おしっこをさせたと思うと、すぐに起こされるで、いらだつことが無かったと言えば大嘘になります。
だが、死なれてしまうと介護からの開放感よりも、介護の大変さが晩年の私の生きる張り合いでもあったとつくづく感じます。虚脱感の方がより大きいからです。人の字は【支え合って】いる姿ですが、支えることもまた生き甲斐だったと言えます。支えることは辛いことではなくて、自分もまた支えることで生きられるのです。
私は満67歳なのですが、私の歳ともなれば両親共は生きておられる方は極端に少なく、母親が生きておられる方もそんなに多くはないでしょう。私は一度も結婚をしておらず、従って妻子もおりませんので独りぼっちとなりました。しかし、幸いに親戚一人も居ないという天涯孤独の身ではありませんでした。
母には兄弟姉妹がありませんでしたが私のイトコたる父方の甥や姪が居て、幸いに私より年長の従姉が近くに数名居てくれたので、何とか曲がりなりにもお葬式を出すことも出来ました。そうしたイトコ達も既に多くが死に何時お迎えが来てもおかしくない者も居ますので、一人で葬式を出すでなくて本当に助かったが偽りのないところです。こうした状態は私だけで無く、幾多の方が同様に介護等のご苦労をされているかと思います。その大変さを【身をもって知る】でした。口先の同情では介護の厳しさは解りません。
ガンの痛みに苦しんで死にたい死にたいと訴える母親を見ると、時には母親を殺して自分も自殺しょうかという衝動に襲われます。介護をしている人が病人を殺す気持ちは単なる介護疲れだけではなくて、見ているのがあまりにも辛くなるからです。
私は素晴らしい体験を積まされたと思っています。そして母は辛かったでしょうが私にその身をもって教えてくれたのです。それは親の慈愛かも知れません。
そうした時、神は無いのかと仏は無いのかとなりますが、助けるだけが神の愛ではないのです。苦は決して魂の成長の邪魔ではないのです。それもまた神の慈愛と言えるのです。
私は子供の頃、神の声と思われるものを聞いていました。それは、そなたの今生は人一倍辛い人生になるでした。次から次へと試練が襲って来る。それでも、修業のお世話になった稲荷神界の豊受の神は、私に苦労をかけ損ねた。もっともっと苦労をしないといけないでした。自分にすれば、どこまで苦労をすればいいのかと不満も出るのも肉体があるからでしょう。
そうした苦労とか試練の連続を受けた時、それをもってその神は「悪魔」だと言う霊能者や霊感者の方が居られます。人に幸せを与えるのが神ならば、確かに試練を与え続ける存在は悪魔だとは言えます。ですから旧約聖書の神、国常立尊は祟り神として嫌われていたわけです。
私は10人ぐらいの霊能者の方から貴方の本守護神は国常立尊(天之御中主)様と告げられましたが、その点から言えば、ここまで私の母や私を苦しめた霊的存在の「国常立尊」は悪魔とも言えます。妻子たる家族が居て、体が健康であればこれほど幸せなことはないからです。そして自分に苦労をさせるなです。この世は楽しく遊んで暮らす処なのだとなります。だが、幸せだけを求めるのであれば、魂の産まれては死に産まれては死にの繰り返しの説明が出来ないのです。また、国常立尊(ヤハウェ・エロヒム)は悪い宇宙人だと言う論理でも説明不可能となってしまいます。何故ならば、宇宙人もまた死んで生まれるの輪廻転生の輪の中にある存在に過ぎないからです。
私自身、遙かなる昔に天使であった時や白龍神であった時の記憶を断片的に持っていて、神の世界の戦いの中で死んでもいるからです。それでもこうしてまた生かされているわけです。
「幸福」の反面は、魂の成長を止める「降伏」であるのかも知れません。幸福だけでは魂の磨きが止まってしまうからです。
私はウシトラ(牛虎)の言葉の意味が解らない人に、いくら説明しても理解には至らないと思っています。魂は単なる「鬼」の話ではないからです。
それは、今回死の前に私の母が言った不思議な内容で解りました。母が死ぬ少し前、不思議なことを言います。厭だ!厭だ!。今でもこんなに苦しんでいるのに、三日三晩も苦しんで石の仏さんを産んで自分は死ぬそうだと言います。
何をバカな話をしているかと問いただすと、夢の中で私の母親は三日三晩苦しんで、インドと日本の架け橋になる石の仏さんを産んで死んだと言う新聞記事が大々的に流れていた。その写真には石の仏さんとその母として自分。そしてその兄としてお前の3人の写真が大きく報道されていたと言うのです。
完全に夢物語で、そうしたことは起きないけれども何かの暗示です。私の母親は意識だけははっきりしていて、単なる妄想を言っていたわけではないのです。日本とインドの架け橋の仏とは、宗教にかなり詳しい方なら解ると思いますが、その架け橋たる仏とは大本教が説いたことで知られるようになった【伊都能売】神のことと思われます。出口王仁三郎聖師は伊都能売観音象を彫られています。が、私の母親が「伊都能売」神の産みの母親とはどういう意味かと首を傾げていました。
出口王仁三郎聖師の弟子で世界救世教の岡田茂吉開祖が説明した「伊都能売」とは、伊都能売神(伊都能賣神皇)は古代日本の最高神であったが、朝鮮から日本に渡来したスサノオなどの好戦的な神を嫌い、中国を経由してインドへ渡って観自在菩薩と名乗り、釈迦に仏教を伝授し、その後、南中国地方に移って観世音菩薩と名を改めたのだという(ウィキペディアより引用)。日本とインドの架け橋です。
私の母親は別に宗教知識を持つ者ではありませんでしたが、その背後に存在したのは豊国姫様でした。
そしてその翌日、またもや母親は不思議なことを言います。自分は何も食べずに水だけを飲んでいるが、自分はミイラになるのだと。
ミイラになる?。それは即身仏の意味だとは解るのですが、それ以上は解りませんでした。だが、ミイラたる即身仏ではなくて、肉体が死ぬことで霊界で即座に神上がりをする意味だったようです。
母が死ぬ少し前、黄金色の光の世界ではなくて透き通った光の世界に入り、本当の光の世界を見たと言います。それは自分がこの世の地獄を味わってこそ見る光の世界なのです。
それが「光透波(ことは)」の世界なのです。
私は母親が本当の光の世界を見たことで、母が死後に行く世界に関しては何も心配していません。
母親が死ぬ直前の夜中に水を吸わせて、少し寝かせて3時間ほど自分が寝て見に行くと死んでいましたが、その死に顔は末期ガンで苦しんだ顔ではなくて、まるで観音様の様に微笑み、そして生きているのかと思うほどでした。ミイラの意味でしょう。
その母親の死に顔を見た親類達がまるで観音様だ。死んでいるとは思えないと評していましたが、母親も自分の守護神さんは観音様かも知れないと言っておりました。観音様が末期ガンで苦しんでいる者を助けないで観音様だろうかと首を傾げておりましたが、その母親がこの世を去って、やはり観音様だったと理解しました。一ヶ月間も水だけで空腹感を一切言わなかったからです。餓鬼の反対なのです。
そして私自身の幻視では、この土地には観音様が立っていると見えるのです。その観音様の額に〇十の記号を見たのです。ただ、それが伊都能売観音とまでは頭が回りませんでした。
しかし、その検証は優れた霊能者の方の手によらないと何とも言えません。
私は子供の頃に母親に向かって、こんな人は自分の母親ではないと思っていましたが、私の前世が判明した後、母親は前世でも自分の肉体の母親だった人だと解りました。ただその時は親子としての縁が薄かった。何の縁もなく、今世でも親子になっていたわけではなかったのです。
母親は自分がこんなに辛い目に遭うのはよほど前世で悪行をした因果かと言っていましたが、そうではなくて世の中の汚れを浄化をさせられていたようです。私が住む土地は大本教の公式文献には何も書かれていませんが、出口王仁三郎聖師がその直弟子の一部の方に残した内容は、弥勒世に関わる場所という内容だからです。
一部のサイキッカーや超能力者によれば、この土地は神界の最終機密ゲートがあり、私が死ぬことによって機密ゲートは閉じられて、人類は高次元に向かうでした。だが、このゲートは大変に汚れていて霊能者の手には負えない。いくら光で浄化すると豪語している方でも、そこは無理だと言われて来た場所です。この土地を浄められるのは私だけだと聞いたことがありますが、私だけでなく私の母もまたこの土地の浄化に勤めていてくれたようでした。
人は必ず死にます。それは止む得ないことです。しかし、その魂は残って次の世にと向かいます。
私が修業のお世話になった稲荷神界の豊受の神は、世の立替(最後の審判)の日時は解らないが、人類はこの地球上に一人も残らないと言われます。私の元にメールをくださる方の中にも自分の守護神から人類は一人も残らないと聞かされていると言われる方もあり、別に豊受様だけが言っておられるわけではないのす。肉体生物としては救えないが、その魂は高次元界にと進ませる。つまり、魂たる【種】が大事なのです。
弥勒の世は三次元界ではありません。最低で五次元界にと進みます。今の肉体では進みようがないのです。
だが、そうした神示に絶対性があるかとなります。豊受の神は、確実に言えることは貴方は世の立替の嵐の中を突き進むでした。私が子供の頃に臨んだ声は、私を最後の審判に立ち会わせるでした。私は子供心に不思議に思い。審判の日に私が生きている確証などないでしょうと聞き返したところ、そなたは審判の日迄は生きている。審判をもってその肉体は死す。その肉体の目でその様を見なければならないと告げられています。
私は来年数えで七十の時を迎えます。俗に享年と呼ばれるものです。来年が私が死ぬ時なのかも知れません。
七十の鳥(酉)とは【鴇(トキ)】の字ですが、別に佐渡の鴇の話ではなくて、時(トキ)の話です。トキは桃花鳥。
大本教神諭、3月3日の桃の花。5月5日の桃の実。伊勢神宮の遷宮の時に使われるのが桃花鳥の鴇(トキ)の羽根。
西暦1999年では無くて、15年遅れの西暦2014年の意味がやっと解けて来ました。私は時を告げるのは「鶏」だとばかり思い込んでいました。
ただ、私がしていることは所詮語るコトバの解釈であり、霊能力で自分を豪語されている方達の足元には及びません。
されど、どれほど自分の霊能力を誇る方も本当の神の光を見てはおられないような気がしてなりません。
光透波(ことは)の世界を見た時、たぶんその神観はガラリと変わるでしょう。
言葉をあだや疎かにするならば、その魂は「光透波(ことは)」に焼き尽くされてしまうことになりかねません。
「光透波(ことは)」は人に非ず。どこまでも「光透波(ことは)」なのです。
人は「光透波(ことは)」に成ることは出来ないのです。
ただ「光透波(ことは)」の代わりに、言葉で知るのです。
人の身でも宇宙人でも霊界人でも、思い上がってはいけないのです。
No comments:
Post a Comment
Note: Only a member of this blog may post a comment.