艮の「待つ」の「松の世」が見えて来たのか?。総ては「公の心」
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- 2013.06.27 Thursday
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- by 上野公園
少し前、夢を見ていました。その夢とは単に女優の「松原智恵子」さんの顔が見えて来ただけです。日活映画が華やかなりし頃、ブロマイドの売れ行きでは吉永小百合さんを越えていたアイドル女優さんでした。最近は脇役でたまに見かけます。
夢を見ていた私の意識は、松原智恵子さんに?をしていました。すると、場面が変わって「三保の松原と富士山」が見える光景です。すると、この夢は私に「松原」を教えていると解りますが、松原の知恵?。その時はそれ以上に考えが及びませんでした。
その次の夜、今度は私の夢の中に元巨人軍で背番号「55」をつけていて、ヤンキースに行った「松井秀喜」さんの顔が見えて来ます。私はまたもや夢の中で「松井秀喜」さんに首を捻っていました。すると、次ぎに見えて来たのは日本維新の会の幹事長で大阪府知事の「松井一郎」さんの顔が見えて来ます。
松井秀喜さんと松井一郎さん。この二人の共通点は「松井」姓です。そして前日の松原智恵子さんで、共通して来るのは「松」の字だと解りました。
私が子供の頃に臨んだ姿なき声は、私に不思議な教えをしました。海岸に風雪に耐えた松の大樹が並んでいる。その松原の松の枝振りを見た人達は、風雪に耐えた松の樹の曲がりや松の木肌の荒々しさを誉めるであろう。だが、その「松の根」を見ようとする者はいない。
たとえ、それがそなた一人だけであってもかまわない。そなたはその「松の根」を見る者となって欲しい。私は子供心に「松の根」とは何の意味かと考えていました。しかし、その当時は解りませんでした。そこにあるのは「松原」を知る「知恵」なのです。
大本教神諭に「末」から「松の世」で治めるがあります。多くの大本教研究者はその松には「末(まつ)」の意味があると考えました。末(すえ)と読むと先行きしませんが、同じ「マツ」です。また、そこには神は時節を「待つ」の言葉も掛けてあると言われる方もあります。
少し脱線しますが、松は祝詞などに「松の緑の変わることなく常盤堅盤」などとありますが、常盤堅盤では岩盤を意味しますので、本来の祝詞は松の緑色を語っていますので常葉堅葉の漢字を振るのが本筋なのです。その松に隠されている意味の一つに「緑」色が存在します。何故に「松」は緑なのか?。それが解らなければ神の仕組みも理解しがたいかも知れません。
そこに来るのは、何故に「みろくの世」と予告された世は、永遠に変わらない「松」の世で表現されたかです。みろくの世で調べれば解る意味の一つに「身禄」があります。自己の身に「禄」をつけることです。
今回、日本の象徴である富士山が世界文化遺産に登録されましたが、富士山と言えば「富士講」です。この富士講を江戸時代に広めた方が「身禄」さんです。大本教発祥以前の「世直し」思想の先駆者です。
身禄の名の前に食行とつけて「食行身禄」さんとも言います。当然に「身禄」の意味は、お釈迦様の死後56億7千万年後に現れるとされる「弥勒菩薩」から取った名です。弥勒を身禄にするは大本教以前にもなされているのです。当時の身禄さんは「救世主」とも思われた修験の方です。
大本教神諭は「末」から「松の世」を説いています。大本教は明治「五十五」年の世の立替を宣伝しました。しかし、その時には何も起きませんでした。松井秀喜さんは巨人軍での背番号は「55」でした。そして大本教が説いた世の立替とは当然に「維新」のことです。
背番号55の松井秀喜さんも維新の会の松井一郎さんもある意味で一種の「言葉の型」を演じておられます。こうしたことは、神から「指名」された「氏名」を持つ者が神の「使命」を言葉の型として演じるなのです。
大本教霊界物語には大本教信徒の方の「氏名」をかなり散らばめてあります。その氏名から意味を読み取りなさいです。しかし、大本教出口王仁三郎聖師はそのことを持ってして、自分と同じ苗字が書かれてあるからと言って、自分が神界の御用をしていると間違ってはいけないとも注意されています。つまり、人の氏名を持って、その人が働いている仕事(使命)などで、神の仕組みが解る様に仕掛けられているわけです。
既存の神社仏閣に祭られているのが神霊が神だと思っている方は、「言霊神」の存在はまずお解りにならないと思います。宇宙の初発に創造神と共にあった存在なのです。
大本教神諭で示された「松(枩)」が持つに隠された意味は「公」の字なのです。
「公」の意味は、自分個人のことではなくて、国家・社会などに関することを皆で共にすることです。それで公平・公正の世が成り立つので「みろくの世」とも言うのです。
今の世は「私」ばかりが先に立ち、「公」が無視されています。ですから、何をやってもいいのだと「我れさえよければの我れよしの世」となって来たのです。
また、それは単に私とか個人に帰する「公」ではなくて、「総」はすべて(全て)において「公の心」であらねばならないということなのです。誰も「総」の字を見ても、どうして「公の心」となっているのか気づかなかったわけです。
私が人に内在する良心神を「米」で説いて来たのは「悉く(米の心)」からであって、やはり「心」の字が秘めてあるのです。心が解らなければ魂は解りません。
大本教の出口王仁三郎聖師さんが、漢字に秘められた言葉の型を教えられてから、単に漢字を分解して説いている方を見かけますが、全ての漢字に神の意志が働いているのではないのです。それに引っ掛かると、要らぬ寄り道をするだけです。
そうした方は「窓」の意味も理解するには難しいことになります。窓の字も「公の心」が入れてあるのです。
宇宙は公の心。ですから、宇志採羅(宇宙の意志は羅を採る)根真として、羅で輪廻転生も起こして来たのです。
立替は大本教によって、一早くにから(1892年)から予告されて来たことですが、それが起きるのは、大本教神諭「神も時節には叶わない」であって、大本教神諭「末で世界の宗教は一つに統一される」で、その「末」を「待つ」が必要であったわけです。ただこの「末で世界の宗教が一つに統一される」は、現実世界のことではなくて、まずは神霊世界においのことなのです。
大本教が予告した世の大立替とは、私が霊界修行のお世話になった豊受姫は立替は間違いなく起きるが、この神をもってしてもその時期は解らないと言われました。時期が解らないことを述べても意味が無いと言えば、確かにそれはその通りです。しかし、豊受の神はその時期は私が生きている間には必ず起きるだろうと告げられました。
世の立替とは命の源である魂の破滅ではなくて、魂が入る霊界は横社会ではなくて縦社会であり、私達の魂が輪廻転生を繰り返して来たのはよりよい霊界に進む為のものでもあったからです。その縦社会の最終位置決めと言えるでしょう。
その霊界が「横の社会」だと誤ったならば、何をしても赦すのが神の愛だと、魂は自己の反省心を失って向上をしなくなるのです。
その「松」の意味する夢の数日後、私の夢の中に一人の修験者霊が現れて、来年、私の身にあることが起きると言います。それは、三十数年前に伏見稲荷山の長者社の御祭神である「御劔」大神が私に告げられた私個人に関する内容で、私個人の「壽」に関係することです。
しかし、個人的な話であってもそれが本当に起きるとすれば、そこに「神界統一」が起きなければ不可能な話ではあるのです。私は御劔大神からそのことを告げられた時、それはあり得ない。不可能なことだと判断しました。
神界統一など、神界で最後の決戦をしない限り起きえません。それが起きるとすれば創造神と呼ばれるほどの神の発動が起きない限り、いくら正神だ邪神だと戦っていても最終決着がつく話ではないからです。
私の夢の中で現れた修験者霊はさらに言います。貴方の周囲を取り囲んでいた邪神達の多くは掃除されて、残すのはあと少しばかりの邪神ですと。それが本当ならば、神界で神界統一の為の作戦が決行されているとも思われます。確かに、私の周囲は霊的に静かになって来ているとは感じるのですが、こうした霊の言う言葉はどこまで信用おけるのか解らないが本当なのです。まして、この修験者姿の霊は自分が何者とも名乗らなかったので解りませんが、富士講の創始者とされる「身禄」さんだったのかも知れません。
数年前、私の最初の師匠に出会った時、その師匠は貴方の周囲は邪神達が遠巻きに七重八重に取り囲んでおり、貴方は世に出ようとすれば邪神達から総攻撃を受けます。おとなしくしていれば邪神達に総攻撃されないから、静かにしていることですと忠告を受けました。私も時節待ちの一人であったのかも知れません。
神の仕組みも時節が来なければ「花」は咲かないのです。大本教神諭には「おいでおいでをしなくても時節はやってくる」とありますが、ようやく「松・末(まつ)」の時節が訪れようとしているのかも知れません。
信州の松本城は、五層に見えても実は「六」層。
公は「禄」を積む。
写真は国宝「松本城」。富士山からス神ではなくて「諏訪のス(諏)を訪れて」松本にと走ってみました。
夢を見ていた私の意識は、松原智恵子さんに?をしていました。すると、場面が変わって「三保の松原と富士山」が見える光景です。すると、この夢は私に「松原」を教えていると解りますが、松原の知恵?。その時はそれ以上に考えが及びませんでした。
その次の夜、今度は私の夢の中に元巨人軍で背番号「55」をつけていて、ヤンキースに行った「松井秀喜」さんの顔が見えて来ます。私はまたもや夢の中で「松井秀喜」さんに首を捻っていました。すると、次ぎに見えて来たのは日本維新の会の幹事長で大阪府知事の「松井一郎」さんの顔が見えて来ます。
松井秀喜さんと松井一郎さん。この二人の共通点は「松井」姓です。そして前日の松原智恵子さんで、共通して来るのは「松」の字だと解りました。
私が子供の頃に臨んだ姿なき声は、私に不思議な教えをしました。海岸に風雪に耐えた松の大樹が並んでいる。その松原の松の枝振りを見た人達は、風雪に耐えた松の樹の曲がりや松の木肌の荒々しさを誉めるであろう。だが、その「松の根」を見ようとする者はいない。
たとえ、それがそなた一人だけであってもかまわない。そなたはその「松の根」を見る者となって欲しい。私は子供心に「松の根」とは何の意味かと考えていました。しかし、その当時は解りませんでした。そこにあるのは「松原」を知る「知恵」なのです。
大本教神諭に「末」から「松の世」で治めるがあります。多くの大本教研究者はその松には「末(まつ)」の意味があると考えました。末(すえ)と読むと先行きしませんが、同じ「マツ」です。また、そこには神は時節を「待つ」の言葉も掛けてあると言われる方もあります。
少し脱線しますが、松は祝詞などに「松の緑の変わることなく常盤堅盤」などとありますが、常盤堅盤では岩盤を意味しますので、本来の祝詞は松の緑色を語っていますので常葉堅葉の漢字を振るのが本筋なのです。その松に隠されている意味の一つに「緑」色が存在します。何故に「松」は緑なのか?。それが解らなければ神の仕組みも理解しがたいかも知れません。
そこに来るのは、何故に「みろくの世」と予告された世は、永遠に変わらない「松」の世で表現されたかです。みろくの世で調べれば解る意味の一つに「身禄」があります。自己の身に「禄」をつけることです。
今回、日本の象徴である富士山が世界文化遺産に登録されましたが、富士山と言えば「富士講」です。この富士講を江戸時代に広めた方が「身禄」さんです。大本教発祥以前の「世直し」思想の先駆者です。
身禄の名の前に食行とつけて「食行身禄」さんとも言います。当然に「身禄」の意味は、お釈迦様の死後56億7千万年後に現れるとされる「弥勒菩薩」から取った名です。弥勒を身禄にするは大本教以前にもなされているのです。当時の身禄さんは「救世主」とも思われた修験の方です。
大本教神諭は「末」から「松の世」を説いています。大本教は明治「五十五」年の世の立替を宣伝しました。しかし、その時には何も起きませんでした。松井秀喜さんは巨人軍での背番号は「55」でした。そして大本教が説いた世の立替とは当然に「維新」のことです。
背番号55の松井秀喜さんも維新の会の松井一郎さんもある意味で一種の「言葉の型」を演じておられます。こうしたことは、神から「指名」された「氏名」を持つ者が神の「使命」を言葉の型として演じるなのです。
大本教霊界物語には大本教信徒の方の「氏名」をかなり散らばめてあります。その氏名から意味を読み取りなさいです。しかし、大本教出口王仁三郎聖師はそのことを持ってして、自分と同じ苗字が書かれてあるからと言って、自分が神界の御用をしていると間違ってはいけないとも注意されています。つまり、人の氏名を持って、その人が働いている仕事(使命)などで、神の仕組みが解る様に仕掛けられているわけです。
既存の神社仏閣に祭られているのが神霊が神だと思っている方は、「言霊神」の存在はまずお解りにならないと思います。宇宙の初発に創造神と共にあった存在なのです。
大本教神諭で示された「松(枩)」が持つに隠された意味は「公」の字なのです。
「公」の意味は、自分個人のことではなくて、国家・社会などに関することを皆で共にすることです。それで公平・公正の世が成り立つので「みろくの世」とも言うのです。
今の世は「私」ばかりが先に立ち、「公」が無視されています。ですから、何をやってもいいのだと「我れさえよければの我れよしの世」となって来たのです。
また、それは単に私とか個人に帰する「公」ではなくて、「総」はすべて(全て)において「公の心」であらねばならないということなのです。誰も「総」の字を見ても、どうして「公の心」となっているのか気づかなかったわけです。
私が人に内在する良心神を「米」で説いて来たのは「悉く(米の心)」からであって、やはり「心」の字が秘めてあるのです。心が解らなければ魂は解りません。
大本教の出口王仁三郎聖師さんが、漢字に秘められた言葉の型を教えられてから、単に漢字を分解して説いている方を見かけますが、全ての漢字に神の意志が働いているのではないのです。それに引っ掛かると、要らぬ寄り道をするだけです。
そうした方は「窓」の意味も理解するには難しいことになります。窓の字も「公の心」が入れてあるのです。
宇宙は公の心。ですから、宇志採羅(宇宙の意志は羅を採る)根真として、羅で輪廻転生も起こして来たのです。
立替は大本教によって、一早くにから(1892年)から予告されて来たことですが、それが起きるのは、大本教神諭「神も時節には叶わない」であって、大本教神諭「末で世界の宗教は一つに統一される」で、その「末」を「待つ」が必要であったわけです。ただこの「末で世界の宗教が一つに統一される」は、現実世界のことではなくて、まずは神霊世界においのことなのです。
大本教が予告した世の大立替とは、私が霊界修行のお世話になった豊受姫は立替は間違いなく起きるが、この神をもってしてもその時期は解らないと言われました。時期が解らないことを述べても意味が無いと言えば、確かにそれはその通りです。しかし、豊受の神はその時期は私が生きている間には必ず起きるだろうと告げられました。
世の立替とは命の源である魂の破滅ではなくて、魂が入る霊界は横社会ではなくて縦社会であり、私達の魂が輪廻転生を繰り返して来たのはよりよい霊界に進む為のものでもあったからです。その縦社会の最終位置決めと言えるでしょう。
その霊界が「横の社会」だと誤ったならば、何をしても赦すのが神の愛だと、魂は自己の反省心を失って向上をしなくなるのです。
その「松」の意味する夢の数日後、私の夢の中に一人の修験者霊が現れて、来年、私の身にあることが起きると言います。それは、三十数年前に伏見稲荷山の長者社の御祭神である「御劔」大神が私に告げられた私個人に関する内容で、私個人の「壽」に関係することです。
しかし、個人的な話であってもそれが本当に起きるとすれば、そこに「神界統一」が起きなければ不可能な話ではあるのです。私は御劔大神からそのことを告げられた時、それはあり得ない。不可能なことだと判断しました。
神界統一など、神界で最後の決戦をしない限り起きえません。それが起きるとすれば創造神と呼ばれるほどの神の発動が起きない限り、いくら正神だ邪神だと戦っていても最終決着がつく話ではないからです。
私の夢の中で現れた修験者霊はさらに言います。貴方の周囲を取り囲んでいた邪神達の多くは掃除されて、残すのはあと少しばかりの邪神ですと。それが本当ならば、神界で神界統一の為の作戦が決行されているとも思われます。確かに、私の周囲は霊的に静かになって来ているとは感じるのですが、こうした霊の言う言葉はどこまで信用おけるのか解らないが本当なのです。まして、この修験者姿の霊は自分が何者とも名乗らなかったので解りませんが、富士講の創始者とされる「身禄」さんだったのかも知れません。
数年前、私の最初の師匠に出会った時、その師匠は貴方の周囲は邪神達が遠巻きに七重八重に取り囲んでおり、貴方は世に出ようとすれば邪神達から総攻撃を受けます。おとなしくしていれば邪神達に総攻撃されないから、静かにしていることですと忠告を受けました。私も時節待ちの一人であったのかも知れません。
神の仕組みも時節が来なければ「花」は咲かないのです。大本教神諭には「おいでおいでをしなくても時節はやってくる」とありますが、ようやく「松・末(まつ)」の時節が訪れようとしているのかも知れません。
信州の松本城は、五層に見えても実は「六」層。
公は「禄」を積む。
写真は国宝「松本城」。富士山からス神ではなくて「諏訪のス(諏)を訪れて」松本にと走ってみました。